武寧(ぶんにぃ)さんの名誉回復を望む

琉球・沖縄の歴史を眺めると、嫌でも “過小評価” されている人物が複数目に留まります。近現代史を例にとると、安村つる子女史(1881~1943)が代表格ですが、ほかにも又吉康和さん(1887~1953)や松岡政保さん(1897~1989)あたりも生前の業績が過小に評価されている傾向があります。

近現代史の場合は史料が豊富なため、過大あるいは過小評価と思われる人物に対してさまざまな視点から見直すことが可能です。だがしかし古琉球の時代は史料に乏しいため、歴史上の人物に対して正当な評価を下すことが極めて難しいといわざるを得ません。

現在のブログ主のレベルで古の偉人たちを再評価するのは少々烏滸(おこ)がましいと思いつつも、どうしても名誉回復したい人物がひとりいます。その名は武寧(ぶんにぃ)で、彼は中山王察度(さつど)の子、明の洪武29(1394)年に察度の跡を次ぎます。なぜ彼を再評価するかといえば、実は武寧王の時代に対明外交の基礎が出来上がったからです。

彼が即位する2年前に察度王の要請によって、閩人(久米36姓)が来琉したことはよく知られていますが、実は翌年に中山から留学生3名を北京国子監に派遣しています。これがいわゆる官生(かんしょう)の初めで、この慣行は明治2(1869)年まで約500年続きます。

武寧政権の時代に中国大陸で大事件が勃発します。いわゆる靖難の変(1399~1402)で明朝2代目皇帝の朱允炆(建文帝)が燕王朱棣(しゅてい)に追放され、そして3代目皇帝永楽帝が誕生します。そのため琉球と中国大陸は外交が途絶した形になってしまいますが、永楽元(1403)年に明の新政権との外交が復活します。そして翌年、琉球・沖縄の歴史上初の冊封が行われたのです。

『球陽』によると、この時期に “天使館” が建設されたであろうとの記述あります。対明外交の再開、および初の冊封使の受け入れのために施設が作られたことは十分考えられますし、武寧政権の時代に久米の閩人たちを通じて明朝との外交がレベルアップしたことは疑いの余地がありません。中山ではなく、南山や北山の為政者たちも朱明府を通じての対明外交を再開します。

ざっと武寧時代の外交について言及しましたが、ではなぜ彼は冊封を受けるまでの外交関係を構築できたのか、

それは彼が久米の閩人たちの安全を保障したからです。ハッキリいってそれしか考えられません。

いくら皇帝の命とはいえ、見ず知らずの “蛮地” に移住するわけで、閩人たちの心細さは容易に想像できます。そんな彼らの居住地における安全を保障したからこそ、武寧政権は明朝との友好関係を築き上げることができたのです。

久米の閩人にとって想定外だったのは、冊封後に “佐敷のタックルサー” こと巴志さん一派が武寧政権を倒してしまったことです。その後の展開はお察しの通りで、彼らは武寧政権を見捨てて巴志さんに付きます。だがしかし、そうでもしないかぎり彼らの身の安全が保障できないのは自明であって、これはやむを得ない処置と言わざるを得ません。

ここまでの説明でもお分かりの通り、対明外交における武寧政権の貢献度は極めて高く、後の琉球の為政者も大いにその恩恵を受けます。にも関わらず『球陽』などの史料では武寧さんの評判は芳しくありません。「荒淫度無し」とか「國をそこなう蛆虫」云々などボロクソに書かれてますが、果たして彼はそこまで惨い存在だったのか、ブログ主は極めて疑わしいと思わざるを得ません。少なくとも支配地域の経済をダメにした18世紀の為政者たちに “蛆虫” 呼ばわりされるのはあまりにも不憫ですので、武寧王の名誉回復を願って今回の記事を纏めた次第であります。(おわり)