尚真くんの時代に完成したバージョン・ショウシンのおかげでPC操作は快適になりましたが、前説で記述したとおり1511年(永正8)のポルトガルのマラッカ占領の影響でネットワークが事実上明⇔琉球⇔薩摩経由の日本に制限される事態が発生します。
当時の琉球は軍事力でポルトガル人を駆逐することができなかったため、東南アジアとのネットワークを復旧することができません。そうなると薩摩の琉球における優位性がますます高まります。琉球側もなすすべなく、いたずらに時が過ぎて7人目のPCユーザーである尚寧くんの時代にはPCを維持する財源に苦労するまで財政が悪化してしまいます。
かたや薩摩おいどん(島津家)*は16世紀後半から17世紀にかけての日本国内の政変に翻弄されて国力を衰退させてしまいます。戦また戦で財政が悪化した*上に文禄・慶長の役の影響で坊津経由の日明貿易の利益が激減したことが原因です。そこで尚寧くんが利用しているPCを奪い取って新たな財源を確保しようと考えます(続く)。
*1609年(慶長14)当事の薩摩藩の藩主は島津家久(忠恒)で琉球征伐を思いついた張本人です。
*ここで豊臣秀吉に降伏後の島津家が関わった戦を記載。
・1587年(天正15):島津義久、豊臣秀吉に降伏。
・1592/1597年の文禄・慶長の役への参戦。
・1599年(慶長4):庄内の乱。
・1600年(慶長5):関が原の戦い。・上記の戦、戦また戦への関与、坊津における日明貿易の激減、さらに1605年(慶長10)の江戸幕府による城普請役など、島津家の財政は破綻へ向かって驀進中でした。