今回はブログ主がコピーした沖縄ヤクザ関連の史料から、復帰後に沖縄県警が全国指名手配第一号として殺人容疑で手配された人物の記事を紹介します。
昭和42(1967)年5月14日に山原派・那覇派と普天間派の対立の中で、(普天間派の)最高幹部である田場盛孝の自宅が襲撃され、そのどさくさで普天間派の組員が死亡した事件があります。その詳細は後日紹介するとして、先ずは記事全文をご参照ください。
暴力団員を逮捕 / 京都府警
県警 / 殺人容疑で指名手配中
京都府警は6日入った連絡によると
復帰後、県警が全国指名手配第一号
として殺人容疑で手配中の暴力団員が同日午前7時45分、同府警に逮捕された。
逮捕されたのは組織暴力団旭琉会那覇構成員、大城長二(23)。6日早朝、同府警の外勤務警察官が京都府伏見区羽東司菱川町で乗用車に乗った大城を職質、本庁に問い合わせたところ5分後にコンピューターが殺人容疑で全国指名手配中の男であると回答、その場で逮捕した。同府警捜査員が6日午後にも沖縄に護送する予定。
調べによると大城は、昭和42年5月14日午前10時ごろ対立中の暴力団普天間派の最高幹部、田場盛孝(当時39)殺害の目的で宜野湾市字普天間494の8、田場の自宅に仲間5人で短銃、日本刀などをふりかざして乱入した。ところが普天間派組員の反撃に合い田場に左足貫通銃創を負わして逃走した。逃げる大城を追ってきた普天間派組員の小禄卓(当時26歳)を返り討ち、持っていた短銃で発砲、即死させた疑い。この事件で共犯の4人がこれまでに逮捕されたことになり残り1人が現在、逃走中である。
大城は犯行当時17歳の少年。昭和42年は暴力団の抗争事件が絶えなかったことで、利害関係で対立した山原派・那覇派連合と田場ひきいる普天間派の抗争が天王山にさしかかった時、同事件が発生した。大城らに左足をぶち抜かれただけでかろうじて命をとりとめた普天間派の田場は同事件5カ月後の42年10月19日午前9時40分、宜野湾市普天間の自宅で就寝中、山原派と那覇連合の組員のピストルで殺害された。その後、田場の死亡で普天間派が壊滅、山原派と那覇派が手を結び沖縄連合旭琉会と名前を改め、現在東声会と沖縄の暴力団を二分している。
引用元:昭和48年8月6日付琉球新報夕刊3面
ちなみに昭和42年5月に普天間で発生した田場盛孝襲撃事件および第3次沖縄抗争(1966~1967)のおかげで、我が宜野湾市は
“暴力の町”
というありがたくないニックネームを頂戴する羽目になります。もちろん当時の住民は “激おこ” で普天間派の最高幹部である田場盛孝が宜野湾市役所に呼び出されて説教される一幕もありました。
少し話はそれましたが、ほかにも目を引いたのは復帰後に沖縄と本土の犯罪者情報が共有されていて、容疑者が速やかに身柄を拘束された点です。琉球警察時代と警視庁が復帰後に備えて万全の準備を行っていたことが伺える内容で、沖縄の犯罪者にとってもはや本土は聖域ですらないという絶好のアピールになったことは間違いありません。
何事も “第一号” は貴重な存在です。当人にとっては不名誉な出来事かもしれませんが、アンダーグラウンドに生きる人間として “歴史に名を残す” 結果になりました。
もちろん良い子の皆さんは絶対に真似をしないよう
強く釘を刺しておいて今回の記事を終えます。