今回は、昭和38(1963)年10月21日から始まった喜舎場朝信(当時41歳)にかかる殺人未遂、証人脅迫事件の公判に関するエピソードを紹介します。この裁判に関連する新聞記事をチェックして印象的なのが、喜舎場さんに対する世間の風当たりの強さです。
以前にブログでも紹介しましたが、玉城克也コザ市議が「社会の人たちは喜舎場さんを誤解している」と力説しても、世間では(とくに地元コザでは)だれも信用しません。なぜそこまで風当たりが強いのか、ためしに下記引用をご参照ください。
那覇に暴力団発生
安里の崇元寺通りに、大島古仁屋生まれの男を首領とする”流星団”が誕生、その他に神里原、現山形屋裏のニューパラダイス通り、壺屋三カ所の盛り場に暴力団が巣をつくり始めた、昭和26年5月7日の「沖縄ヘラルド」は、7名の特別取材班が取材した記事を、社会面一頁つぶして被害者の声を特集した。戦後の暴力団キャンペーンの始めである。
最も悪質なのは神里原(かんざとばる)で、北谷のAJカンパンの暴れ者だった愚連隊をトップに、街頭賭博を専業に、夜は水商売にたかっている。安里、崇元寺前の流星団は、壺屋の大島生まれに追われた連中の集まりで、特飲街を根城にしている。ニューパラダイス付近にゴロっているのは、PXやドライバーなどの職業持ちが多いグループで、タカリを禁止されているうえ、ダンスホールに通う女たちを引っかけるのに精を出し、喧嘩も大体それが原因という。
壺屋組は大島グループで、桜坂のドル箱を抱えて、堂々たる体格のボスは結構な羽振りである(下略)
引用元:山城一郎著『戦後無法時代秘話 – あの世から帰ってきた男の復習』55~56㌻
ご存知のとおり喜舎場さんはAJカンパンに所属、昭和25年当時は非常に羽振りがよかったので何をしていたかはお察しです。酔った勢いで大島出身の女中さんに蹴りを入れて殺してしまったのもこの時で、いわば無茶苦茶なことをやっていたわけです。
昭和38年当時は戦後のどさくさの記憶が鮮明ですから、かつて喜舎場さんが所属していたAJカンパンの悪評はそう簡単に忘れ去られるものではありません。そんな喜舎場さんが安慶田に豪邸を構えて、地元コザで名士扱いされるものですから、世間の反発を買うのも当たり前なのかもしれません。
この裁判において同年11月から弁護人側証人が始まり、喜舎場さんの人柄などについて複数の関係者が証言しています。そのなかでも傑作なのが同月6日の元コザ通り会長の武村盛秀氏の証言でその内容は下記ご参照ください。
”喜舎場さんは暴力団ではない” 又吉射撃事件公判 – 元コザ通り会長が証言
(中略)元コザ通り会会長武村盛秀氏は「一九五六年ごろ私は会長、喜舎場さんは役員をしていた。喜舎場さんは通り会の発展のためにつくした。一九五六年には会員全員の意思で喜舎場さんに感謝状を贈った。知人や隣近所の人の評判では、喜舎場さんの評判はよく、
顔に似合わず心の美しい人だという。
暴力団なんてとんでもない」と証言した。
引用元:昭和38年11月6日付琉球新報夕刊3面
ちなみに前日に出廷した弁護士(コザ地区防犯協会会長)さんは「喜舎場朝信は警察、防犯協会へは大いに協力し、暴力団とのつながりがあるとは思えない」と証言し実際に防犯功労者として喜舎場さんに表彰状を送ったとのこと。昭和38年時点で前科4犯(殺人事件含む)、かつてのAJカンパンのボス的存在が時を経て “顔に似合わず心の美しい人” 扱いされるとは当時のコザ市恐るべしとブログ主は驚嘆した次第であります(終わり)。