前置き・13世紀後半から16世紀末にかけての琉球国の中継貿易について 1

ここまで琉球・沖縄の歴史をPCとOS、そして利用者に例えて説明しました。英祖くんから始まって尚眞くんの時代にようやくPCは安定的に利用できるようになりました。ここではPCを利用する上での大切な要素であるネットワークについて述べます。

ネットワークとはPC間を結ぶもので、この場合は琉球や中国大陸、あるいはシャムやマラッカといった東南アジア諸国や日本との貿易・物流ルートになります。1372年(応安5/建徳3)に察度が冊封を受け入れて以来、明国との朝貢貿易は時の権力者によって最も大切な利権となりますが、最終的に朝貢貿易の利権は中山国を乗っ取った思紹王統の手に帰します。明国がなぜ朝貢貿易の相手として琉球を優遇したかは謎ですが、この政策によって琉球国は東アジア内で中継貿易の重要な拠点としての地位を確立します。

ただしこの中継貿易は見逃せない欠点があったのです。それは当時の琉球国内に大きな市場なかったため、明やマラッカ、シャムなどで仕入れた商品は日本へ輸出しないと稼ぎになりません。そのため那覇で日本の商人と取引を行うのですが、当時の琉球→日本への交易ルートでは薩摩の坊津を経由しなければならないのです。

日本本土から琉球との商取引を行うには薩摩の坊津へ停泊して琉球へ向かうルートが一般的でしたが、その際に薩摩地方を支配する島津家が発行した朱印状がないと琉球への渡航を禁止される慣例があったのです*。この慣例は15世紀半あたりからあったようですが、問題は当時の琉球側には無断でこの慣例が運用されていたことです(続く)。

*この慣例は1441年(嘉吉元)の嘉吉付庸事件において、6代目将軍足利義教より薩摩の島津忠国に対して琉球国を付庸する権利を与えられたことに因ります。ただしあくまでも薩摩側の主張でこの一件が事実かどうかはよく分かりません。

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