3年前の今日(平成29年5月30日)、ブログ主は”現代社会の古典離れを憂うお話 その2”と題した記事をアップしました。ブログを開設して1年経過して初めて”改心の出来”という感覚を味わった初期の傑作ですが、あれから3年経過して我が沖縄社会および日本における古典離れはもはや手に負えない状態であると実感せざるを得ません。その一例として言論界における堕落した一部記者およびコメンテーターの例を挙げます。
昨今の新型コロナウィルス禍に関連して痛感したのが、既存マスコミの一部記者およびテレビコメンテーターの教養の低さです。なぜここまで品性に欠けた言動が多いのかをブログ主なりに考察した結果、彼らには「他人を理解しようとする配慮に欠けている」ことに気がつきました。
他者を理解することは信頼関係の第一歩であり、とくに”物申す”立場にある人たちには必須の能力ですが、一部記者およびコメンテータにはその発想すらなく、お題目のごとく権力批判を繰り返す姿にはもはや哀れすら感じさせるものがあります。
参考までに論語の中に有名な一説がありますので紹介します。
憲問14 子曰問事君子曰勿欺也而犯之
【譯讀】子路君に事ふることを問ふ。子曰く、欺くこと勿かれ。而して之を犯せ。
【章旨】孔子、子路の問に因りて、君に事ふるの道は、先ず信實にして欺くことなきを本とし、而る後、君の顏を犯して諌むべきを以てしたまひたるなり。
【直解】子路が君に事ふる道を問ひしかば、孔子答へてのたまはく、君に事ふるに恭敬にして誠實を旨とし、欺き悔ることなきやうにすべし。其の上にて君に不都合の行爲あらば、遠慮なく顏を犯して諌爭せよ。子路の性質は、行行(剛强の貌、先進篇に、子路行行如也とあり)たれば、時に欺き悔るの失を免るる能はず。故に先づ告ぐるに欺くことなかれといふを以てし、而る後に之を犯せといふを以てせられたるなり。子路の勇を好める、君の顏を犯して諌爭するは、必ずしも難き所に非ざればなり。事君の道、豈此語の能く盡す所ならんや。蓋し子路の病に對して投藥せられたるのみ。
簡野道明著『論語解義』495~496頁より抜粋
参考までに太字部分の「君に事ふるに恭敬にして誠實を旨とし、欺き悔ることなきやうにすべし」を補足すると、恭敬にして誠實を旨とするには当然ながら相手(ここでは君)を理解する必要があります。相手を理解する→その上で欺かない言動を心がける→信頼されたと判断したら”これを犯せ(諌めること)”と孔子は力説しているのです。
上記の一説は別に君臣の関係だけに適用されるのではなく、上司と部下の関係および夫婦や友人関係にも適用できます。そして古今東西に共通する真理かと思われますが、現実には”相手を理解しようとしない→理解できないから欺かない言動ができない→信頼されてないにも関わらず余計なおせっかい的な言動を繰り返す”のが現在のマスコミの実情ではありませんか。
古い話ではありますが、小室直樹博士のエピソードを紹介します。
安保とは何か。
誤解されている側面もあるかと思われるので、少しくここで論じておきたい。
今となっては、昭和35年の安保騒動なんてといったところで、時代劇の一種だろう。若い人のなかには、まったくなじみのない人もあるかもしれない。
いや、このとき、安保反対を絶叫してあばれまわった人びとさえも、安保とは何だか知らなかった。
昭和35年、岸内閣は、日米安全保障条約を改正しようとした。
安保反対の嵐は吹き荒れて、暴徒は、社会党代議士の先導のもと、国会議事堂に乱入するありさまであった。
当時、筆者はアメリカにいた。アメリカの友人たちは、口ぐちに言った。これは革命だ。なぜ、警官や自衛官は、暴徒に発砲しなかったのか。大多数のアメリカ人も、おそらくこれと同意見であったろう。
アメリカには、日本が西側から抜け出してソ連側に走ることを虞れる者さえいた。
筆者の友人のひとりも、安保反対であばれすぎて起訴された。自分は命がけで安保反対運動に挺身したのだと、アメリカにまで書いてよこした。
筆者が日本に帰ったときには出獄していたので聞いてみた。
安保のどこにどう反対なのだ。この友人、答えていわく。はじめからしまいまで、みんな反対なんだ。あまりにもへんなことを言うので、よく質してみると、彼は安保条約を一行も呼んだことがないことが判明した。
この男、いまは大学教授で、中曽根首相の「頭脳」じゃなかった「お飾り」をつとめている。(小室直樹著『大国・日本の崩壊』昭和62年2月発行、23~24ページ)
60年ほど前の笑い話ではありますが、まるで昨今のワイドショーの一部コメンテーターの言動を見ているようです。もしかしてこの記事を掲載して3年後には新聞社、テレビ局に勤めているというだけで社会からバカにされるのではと余計な心配さえ沸いてきます。
ブログ主は現代マスコミあるいは一部識者の言説からいかに現代社会から古典的教養が失われたかを実感しそれを嘆くひとりですが、せめて自分だけでもそうならないよう、そしていつの日か故西銘順治氏のように教養あふれるコラムが書ければと思いつつ今回の記事を終えます。