10月26日、〈機動隊 差別発言を問う〉沖縄からアジェンダを、安冨歩さん(東大東洋文化研究所教授)の記事を読んでおもったこと。

ayumu-yasutomi

10月18日の沖縄県東村高江において機動隊員が現地活動家に対して「土人」と吐き捨てた件に関する記事やニュースを数多く読みましたが、10月26日の琉球新報の掲載された安冨歩さんの記事ほど面白いものはなかったので今回掲載させていただきます。まずは全文をお読みください。

~機動隊 差別発言を問う 安冨歩さん 東大東洋文化研究所教授~ 

非暴力の闘争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手を挑発して暴力を使わせるか、ということ。今回、この線から近づくなと言う警察に対し、抗議する人々が金網を利用して挑発し、日本警察の本質を露呈させた。「土人」発言という暴力を振るったことで、警察は窮地に立たされている。沖縄が今考えるべきは、さらに挑発的な次のアクションをどう起こすかだ。

猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。

もちろん、それが一般化し「沖縄人は土人だ」という空気が広がる可能性もある。その場合、沖縄は独立せざるを得ない。そのときは世界中がそれを容認し、日本は威信を喪失するだろう。だからこそ、ここが闘いどころだ。

大事なのは、戦いのアジェンダ(議題)を沖縄が設定すること。権力の行為に反対する運動では、アジェンダを先方に握られているので敗北は必至。常に沖縄が主体性を確保し、アジェンダを設定しなければならない。

今回の「土人」騒動は、言い訳した大臣の発言がまた火種をつくっている。沖縄はかさにかかって権力者を挑発し、ばかなことを言わせ続け、次々に言い訳させて対応を迫るべきだ。できれば米政府、米軍、米大使をその渦に引きずり込む。米国は人権を重視する国のはずだから、沖縄人を土人呼ばわりする日本の警察に米軍が守られている状況をどう思うか、聞いてみたらいい。(随時掲載)

なかなか勇ましい発言ですが、今回なぜかブログ主の頭に思い浮かんだのが下の文章です。 

日本の場合には、秀吉の朝鮮征伐からはじまって、近代における主な諸戦争、日清、日露の戦役、また北清事変、第一次対戦、シベリア出兵、満州事変、支那事変、太平洋戦争と、これらはすべて日本の決意によりスタートした戦争だった。しかもまた、太平洋戦争最後の局面のみを例外として、すべて戦争は海外において戦われた。それゆえ、日本人の意識の奥底には、「日本が決意しなければけっして戦争は起きない」という心的傾向が沈殿した。 

つまり、相手側が欲しようと欲しまいと、戦争するかどうかは、すべて日本人の胸先三寸だということである。 

この世界にも珍しい奇妙な心的傾向-「神風史観」-から導かれる一つの糸が、「戦争史観」と結びつくとき、世界中が驚倒する身勝手この上ない戦後日本人の心理=「日本人が戦争などという犯罪的なことを考えても見ない限り、戦争なんぞ起こるものではない」という思考法を生み出すことになる。これぞ日本的史観(歴史の見方)である。(ソビエト帝国の最後、小室直樹著) 

かなり強引な見方ですが、安冨さんは「闘いの主導権を握るのは自分たちである。こっちの事情を考慮せずに相手が勝手に攻めてくることはない」と仮定して論を進めているのです。小室博士の言葉を借りると「相手側が欲しようと欲しまいと、闘争するかどうかは、すべて沖縄県民の胸先三寸だということである。」になります。

いろいろ突っ込みどころ満載の記事ですが、なぜそのような思考法で論を進めたかを邪推すると東大教授という権力側が用意した安定した地位にあるからこその発言でしょう。キツい言い方をすれば自分は安全な所から無遠慮に相手を煽っていることになります。東大教授という地位がそこまでの聖域なのかは寡聞にして存じませんが、安冨さんが表現の自由を満喫しているのは確かです。

「沖縄はかさにかかって権力者を挑発し、バカなことを言わせつづけ」とありますが、権力者を挑発してもバカなことしか言わないという保証はありません。政治権力というのは無茶苦茶恐ろしいもので、暴走すると洒落にならないから、3つの権力の分立させ、しかも国法(憲法)でがんじがらめにしてようやく制御できていることを考慮していません。この人ほんとに東大教授なの?という突っ込みは野暮なので止めておきますが、賢明なる沖縄県民はどうかこの論説はスルーして健全な社会生活を送ることを切に願います。(終わり)

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