本土暴力団の進出警戒して結束強化
「沖縄の暴力団の歴史は、鮮血に彩られた対立抗争の歴史である。縄張りと権利の維持と拡張にとりつかれた欲張り徒輩が分裂しては戦い、つぶし合い、そして統一し、再び争って分裂することを繰り返してきた歴史である」 – 竹花豊(前沖縄県警本部捜査二課長)は「沖縄県における暴力団の実態と取り締まり」(東京法令出版社刊)のなかでこう記述している。
沖縄の暴力団対立抗争は、四次に分けられるが、三次までは復帰前で、いずれも県内暴力団同士の縄張り等の争い。組織も離合集散を繰り返してきたが、第四次に至って、本土暴力団の沖縄進出を警戒し、県内の各派が結集、連合体組織を結成した。しかし、統制がとれずに本土暴力団を巻き込む動きのなかでの抗争だった。当時取り締まりにあたった関係者は口をそろえてこう言う。
第四次抗争の原因と背景に入る前に、第三次までの概要にふれておこう。
第一次は1962年、コザ派と那覇派の縄張り拡張に伴う抗争で、コザ派幹部の新城喜文(=喜史)らが那覇派の又吉世喜を連れ出し集団暴行を加え、重傷を負わせたことから両派が殴り込みをかけるという事態が約二年間も続いた。第二次はコザ派から分派した泡瀬派と残ったコザ派が山原派と改名。さらに那覇派からも普天間派が分派したため、県内の暴力団は山原派、泡瀬派、那覇派、普天間派の四派に分裂した。とくに山原派と泡瀬派は同一地域に縄張りをもっていたことから、その拡張と維持をめぐっての争いが絶えず、その対立感情はついに那覇、普天間の両派も巻き込み激化した。この対立抗争で泡瀬派は戦力を失い、1967年1月解散宣言をして壊滅した。第三次は壊滅した泡瀬派の縄張りの奪い合いが発端となった。第二次抗争がまださめやらぬ1966年10月初旬に勢力の強い山原派に那覇派が加担し、普天間派との抗争だった。この抗争で普天間派首領の田場盛孝が寝込みを襲われ、頭部に銃撃を受けて即死(1967年10月19日)するまでし烈な抗争となり、首領を失った同派はその年に解散した。
このように第三次抗争までの間に弱い組織はつぎつぎに〔淘汰〕され、コザを根拠とする山原派と那覇派だけとなった。
長い抗争で勝ち残った両派は、友誼関係を深め、対立を避けて平和共存を図ったが、それも長くは続かなかった(続く)。
コメント
Comments are closed.