久高島印象記 (5)- 又吉康和

一 久高島に印象の一番深いものは地割制度であつた。明治三十二年法律第五十九號を以て沖繩縣土地整理法が施行された、で同第二條に依り縣下各村の持地人(百姓)は最終の地割替に依り各自其の割當てられた土地の所有權を完全に獲得したわけである。然るに獨り我が久高島と渡名喜島の百姓等は地割地を從來の通り持地人の共有としたのである。其の爲め各町村では何處でも私有財產として土地を所有して居るにも拘わらず久高島では土地が共有である。

土地整理法は縣民種々の要求に依り試行されたものであるが(本誌六月號仲吉朝助氏の沖繩の地割制度廃止と其影響参照)普選試行された暁は面白い制度として研究の價値あると思ふ、幸沖繩の地割制度は仲吉田村兩氏に依りて研究され不日出版さるゝさうだから土地分配の興味を有たるゝ方乃至社會問題に注意さるゝ人々には非常に参考になることゝ思ふ。然らば久高島の地割はどんな方法で試行されてゐるかと云ふに左の方法に據つて行はれ而して少しの不平もない。

島の周圍は一里十八町、0、五八方里(1里18町、0.58方里)の面積であるが、耕地は百五十一町歩程ある。勿論其の内には肥沃の地も瘦地もあるが两者相混合して之を百五十分し其の一を一地と稱して居る。之を十六才より五十才の男の頭數に割當てゝある。一地は凡そ二千歩であるが、五十一才に達したら其の權利を失ひ一旦字の所有となり、更に十六才に達した男子に繼續して行く。又男子無く女子ばかりの家は男の半分程割當てられる。

租稅は字を十與に分ち字で按分して賦課し之を一纏めにして收めてゐる。島民はそれを面倒とも思はず亦不平などは毫もない。尚ほ王朝時代には右の外に「貝殻地」と云ふのがあつた。王朝時代には貝の貢があつた、其貝殻を十五才の男の子に拾はしめて其代償として之れをあてがつたものである。之れは即ち田村氏の謂はるゝ貢租の關係であつたらう。その外に根人即ちノロ二人居て(久高と外間)各三千六十歩を私有し、根神が二人居て各三百歩を所有して居る。

彼等は以上の方法に依りて土地を分配し之れを耕耘し何の不平もなく平和に此の神秘的の島に安住してゐる。此の島は外の小嶼よりも瓦葺が多い、それは昔此の島より必ず唐船が出たものだ、一度船頭になつて支那へ行つて來たら非常に富裕になつたものである。古へより海に馴れた彼れ等の若者共は現に大島先島方面へ漁業の出稼ぎに行き島には女と老人が多く殘されてゐる。現に漁業成金が居るさうである。それからすると此のローマンスの島にも近代の經濟生活の壓迫が押し寄せて來ていつまでも桃源の夢を貪つて居るわけには行くまい。

 神の久高島に人間らしい嗅ひのする印象を與へるのは尙德王とクニチヤサの戀である。尙德王は武勇勝れ戰を好み自ら二千餘の兵を率ゐて大島を征伐した。其の爲めに國民は疲れ四民の怨望する所となつた。此の時に當り内間御鎻は非常な人氣を博して居た。王久高島に参詣の際國人之れを殺し内間御鎻を奉して中山王とした、即ち尙〔圓〕王である。之れは歷史の語る所であるが此の島の古老達の説に依ると「此の島にクニチヤサと云ふ絶世の美人が居た。尙德王は参詣してクニチヤサの艶麗なる姿に惚れ込み急ち二人は戀中になつて了つた。尙德王は王の身分も忘れ二年の歲月を此の小嶼に暮した。其の間に首里の方では革命が興り、内間御鎻が中山王に奉せられたと報して來たので王は逆上し身を海に投じて憤死した」と云ひ傳へてゐる。今から五十年前海から金の簪が漁夫の網にかゝつて來た、それは王者の簪であつた、即ち海に身を投した尙德王の簪である〔。〕その簪は久高島豪家の〔寶〕物となつて保存して居る。

何處の英雄の末路も悲慘なものであるが、我が尙德王の末路も亦御多分に漏れない。然し愛人と共に平和の島に暮し、而も維盛卿の如く敵の爲に恥しめられず愛人と共に死んだのは悲慘な彼れの最期に艶を付けてくれたと云ふべきで、此の話が此島を一入(ひとしお)美しく飾つてゐる。當に之れ劇的シーンではないか。尙德王をして若し近來人たらしめば、王位は奪はれても戀を得て恐悅の生活を創造し得たであらう、彼れは其の時僅廿七歲であつた。

三 久高島は他の村より或る優越權を與へられてゐた〔の〕で、島民は過去に於て美しく優れたものを現在に生かして居る爲め、舊時代に執着を持つてゐる。だから他所で改革された舊(ふる)い習慣が此の島では昔の儘平氣で保存されてゐる。然し既に近來的經濟生活に馴れ、未來に輝かしいものを見出した時、此の地上に於ける人間生活の雄々しさを自覺し桃源の夢より醒めて、囚はれた從來の生活からするであらう。只注意すべきは彼れ等の特種の敬神の念を破壞せずに馴致し時代に順應せしむべきである。

兎にも角にも此の小さい島に傳說の多いのは不思議な種である。一行中の某氏は津堅島を見た時、「小さな久高島にあれだけの傳說があるから津堅には尙ほ多からう」と訊いて居た。それに對し私は斯う答へた「久高島は白樽の創造生活に出發して居り、他は中城方面の劣敗者が露命を繫ぐ爲めの模倣生活から承け繼いだものであるから兩者の間には雲泥の相違がある」と。

吾々の久高島に留つたのは三四時間ばかりの短時間であつたので、勿論鳥瞰眼的の見聞であり、それに其の時は六月上旬即ち盛夏の候であつたが今は秋冷の候となり、印象も段々薄らいで來た。加之(これにくわえて)其の當日朝日紙上にも紀行文を書いたので何んだか氣が進まない。更に再行を期して今回はこれで擱筆することにする。此の拙き印象記に依り、古琉球の研究に興味を多く有(=持)たれる方々が居らるゝとしたら望外の幸である(完)

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