ソ連の裏と表 ⑴ – 背筋を走る恐怖の追憶 平和と自由のために綴る

【まえがき】 顧みれば、昭和十六年三月歓呼の声や旗の波に送られて、那覇埠頭を船出して以来、戦争、敗戦そしてソ連に抑留という運命に身をまかせて、不思議にも生還を得て再びなつかしい故郷の土を踏むことの出来た今日迄足かけ十七年になります。

終戦当時ハルビンの特務機関に勤務していた私はソ連軍の入城後捕虜として収容され、その年の十一月ハバロフスクから程遠くないビロビジャン州の一農村にある捕虜収容所で山林伐採や道路工事などに従事していたが、翌年の九月特務機関勤務の前歴が発覚してハバロフスク監獄に送られ、次の年の六月には飛行機でモスコーに連行され、八か月後の監獄取調の後スベルドロフスク、ノボシビリスクイルクーツク等の監獄を経て再びハバロフスクの監獄に送り帰されて、昭和二十三年十月秘密軍事裁判の名の下に二十五年の懲役を宣告されました。昭和二十四年四月に囚人護送車で二ヵ月の旅を続けて、北極海沿岸のインター・ウルクタ地区の僻地の特殊収容所を転々と移転しつつ地下で石炭採掘をしていたところ、二十七年春三度ハバロフスクに送り帰されて、はじめて受刑軍事捕虜収容所の日本人集団に加えられました。

終戦以来家族との連絡が許されたのもその時の事でした。去年の三月ハバロフスク事件でまたまた投獄されて、一年の禁固刑を執行中、日ソ条約の効力発生にともなってやっと今回帰国することが出来ました。温い故郷の人々の真心に迎えられて、長い間冷たく閉ざされた心のほころびるのを感ずる喜びと同時に暗かった抑留生活を思い出す時、今になってゾッと背筋の冷たくなる感じがします。

戦争が終りを告げた後は、一日も早く祖国に帰り平和な家庭を築きたい、と希ったのはおそらく異郷に終戦を迎えて抑留生活を送った人々の誰しもの一杯の願いであったことでしょう。しかし厳しいというよりはむしろむごいソ連の捕虜扱いのため、なつかしい故郷の山河を夢に慕いながら、愛しい父母妻子の名を叫びつつ、飢えと寒さと疲労のため、遂に白樺の下に骨をさらして土と化していった気の毒な数十万の同胞を思う時、私は未だに涙を禁ずることができません。北辺の地に散った今は帰らぬ戦友達の冥福を祈りつつソ連の真実の姿を一部なりともより多くの人々にしって貰えば、と思って私は抑留生活十一年を通じてこの目で見、この耳で聞いて知った事などをまとめてみることにしました。私は十一年間を捕虜収容所、監獄、囚人強制労働所とソ連の裏街道ばかりを歩いてきました。ソ連の表通りの、よい所、きれいな所は、今まで見てきた幾人の人達によって広く紹介されているが、裏側をのぞいてみることもまたソ連の真実を知る為の一助となると思います。

一軒の家に例えるなら、私は裏のクグリ戸から入って台所と便所とゴミ箱ばかりをあく程みせられて来た様なものです。玄関から通されて応接室でお茶とお菓子を御馳走になったお客様方は、遂にそこの家族とも会わずに帰ってきたのではないかと思われます。私は裏道だけを歩き乍ら、玄関と応接室には遂に通されなかったがそれをかいま見ることは出来ました。というのは囚人の世界は新陳代謝がはげしく、絶えず社会から新鮮な囚人が送りこまれ、中にはかつてのソ連の高官の人達や自分の名前すら書けない無学文盲の農夫に至る迄、あらゆる層の人達が雑居していて、ジャバよりもはるかに言論界は自由だったから、うちとけて話して呉れるからです。

正直に不満を表現する事の出来ないソ連では、囚人の世界だけが本当の人民の声を聞く事が出来るという便利もあります。(1957年4月29日付沖縄タイムス夕刊4面)

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