三 白樽一男二女を擧げた。長女於戸兼樽(オトカネタル)は祝女の職に任ぜられ山嶽の祝祭を司つた。長男眞仁牛(マニウシ?)は父の家統を繼ぎ、其の子孫繁昌した。(外間根人は其の後裔である)二女思樽(ウミタル)は巫女になつたが後玉城間切の巫女に擧げられて、城内に居た。其の天姿の艶麗と貞操律儀堅く、物腰の端正なること常人の及ぶ所でなかつたので急ち評判となり終には國王に召され宮中に入り其の寵愛を受けた。
王は他の諸妾より思樽を特に愛した、諸女は嫉妬し思樽を妬んだ。其の間に思樽は壞妊した、諸妾は愈々彼女と相反目し語さへ交はさなかつた。かゝる面白からざる空氣が宮中に漲つて居る時に或る日思樽は誤つて放屁した、諸妾は彼の女の失策を喜び毎日〱彼女を冷笑した、思樽宮中に居堪まらず病と稱して暇を乞ひ故鄕京久高島に歸つた。
光陰は矢の如く過ぎ彼の女は早くも臨月となつた思樽は斯る穢所(けがれたところ)で國王の胤を出產することの罪深きを感した。そこで別に一室の離れを建てさせて王子を擧げた(此產室今も外間根人の屋敷に殘つてゐる)そして名を思金松兼(ウミカニマチカネ?)と付けた。思金松兼七歲の時屢屢(しばしば)母に向て父を尋ねた、母は答へ曰く「汝は父なく只吾一人の生む所なり」と然し八歲になつてからはそれでは滿足出來なかつた頻りに父を尋ねて而して曰く「天陰陽を以て萬物を生す、况や人皆父母あり如何なれば我獨り父なきとせんや人として父を知らざれば何を以てか人たることを得ん我れ生れて益なし何そ早く死せさらんや」と云つて絕食した、母其の絕食を憫み、王の寵愛を蒙り諸妾共の嫉妬を受けたることから些細漏らさず物語つた、然し汝は海島に生ひ立ち衣服容貌京都に同しからず、依つて天顏を拜すること思ひもよらず、で先日汝の問に答へなかつたのは其の爲めであると云ひ聞かした。思金松兼之れを聞いて初めて自分の父を知つた、彼れは亢奮して顏がほてゝ來のを覺えた。
それから彼れは毎日伊敷泊に參訪した、東方に向つて合掌して祈願した、「我母本王の側に侍り愚身を懷姙(=懐妊)しけるに、過あつて病と稱して故鄕に歸り、予海外の夷島に成長し父君を見奉らざるを實に安からず、伏して願くば天神地祇この悃沈を憫み朝廷に入つて聖主にまみゆることを得せしめ給はば隆思(おもいたかまること)極りなし」と赤誠をこめて祈つた。斯くすること七日に至つた。七日目の朝黄金の一物が光輝いて波上に浮んで來るのを見た。彼れはあやしみ乍らそれを衣の袖にすくひ見たら、黄金の瓜種子であつた。彼れ非常に喜び勇んでそれを懷中し母に告げた、彼れは母と相談して其の瓜種子を持て朝廷に登つた。
四 思金松兼は自信があつた、そして役人に向ひ主上に謁見を請ふた、役人共は思金松兼の髪の赤く衣の粗末なのを笑つた、而して蠻夷(ばんい)の賤しき童が妄りに宮中に上ると罰するぞと脅した、然し彼れ容貌を正し威儀を整うて少しも恐るゝ色なく、偏に主上に謁見したひ旨を懇願した、諸役人怪しみ居る中に、此事件が早くも王の耳に入り御前に召出された、思金松兼は懷中から彼の黃金の瓜種子を取り出して恭しく王に献した、而して奏して曰く「この瓜子は國家の至寶にして世にも稀にもなきものなり天雨降りて土を濕す時まだ屁を放たざるの女をして是れを蒔きおろさしめ給はゝ大に盛茂して實を結ぶと夥し」と王大に笑つて曰く「人此の世に生れて誰か屁を放たざらんや」と、そこで思金松兼は心中しめたとばかり「人皆屁を放たざるものなきとせば何故に屁を放つものを咎め給ふや」王此一言を聞き給ひ奧宮に入御あらせられた、彼れは母の放屁して故郷に歸り彼れを生んだことを詳に奏上した、王之れを聞き給ひ感慨無量思金松兼を其のまゝ城内に養育せんと思召されたが外夷の童を俄かに王子に取り立てる御遠慮もあつて、追而(おって)沙汰を待てと一旦故郷へ歸した。
其の後王に世子が無かつた爲め、幸福は思金松兼に降りて來た、即ち勅命は彼れを海島より宮城に召され世子に册立した。そして終に大位に即いた。それから君主二年に一度は久高島行幸、且つ一年一度は外間根人及祝女共仲門に至り恭しく魚類數品を献し祝女は宮中に召されて盛宴に列し茶、多葉粉等を下賜され、根人には御玉貫一双を賜ふたが、康熙唐子(原文ママ)の年に至つて其の献上物並に御下賜品は御取止めとなつた。
以上は久高島の由來記である。原文の筆者は不明であるが中々名文である。私は少年時代から淡い乍らも久高島に對して親しみを有て居た、我が祖南山王が尚巴志に亡された時、其遺子は忠臣に擁されて一時久高島に遯竄(とんざん)して居たことを祖母に聞かされたことがある、そして東巡りの話も聞かされた。此の頃は懷し情緒が彼の傳説の島に湧いて來た。私の希望を滿すべき日は突如として惠まれた。六月八日、縣廳から、安達、吉田兩部長、末原學務課長、田村産業課長、井口保安課長、櫻井衛生課長、佐々木技師、圖師警部、山田島尻郡長、照屋水産理事、南風原氏、築港の奥間氏、池宮城氏と私、それに客分として天野那覇局長、靑木測候所長、伊波圖書館長、笑古眞境名安興氏、坂口一中敎諭などが同行に加わり案内役として新垣知念村長總勢二十名、住吉丸に乘込んで、樂しい航海をし乍ら久高島を參見した。住吉丸は四七噸十五馬力八ノットの奇麗な極めて乘心地のよい小蒸汽船である(沖繩敎育 – 大正十三年六月一日発行より続く)
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