今回はこれまでブログ主が精力的に蒐集した沖縄ヤクザ関連のちょっとした小ネタを提供します。年末年始の忘年会あるいは新年会など飲み会の雑談で利用していただくとありがたいです。
今回に限らず沖縄ヤクザ関連のお話は原則として新聞など公開情報を元にしています。伝聞あるいは非公開情報は取り上げないようこころがげていますのでご了承ください。
※令和05年01月28日、サイト内整理に伴い、一部加筆・修正済。訂正を加えた分は青地で表記しています。
・昭和38(1963)年12月に又吉世喜の射殺未遂事件に係る裁判(喜舎場朝信および新城善史被告)は “大陪審制度” で行われた。この制度で琉球住民が裁かれるのは歴史上はじめての出来事である。
・その裁判の際に、玉城克也(新聞紙上では勝也の表記)コザ市議は “嘆願書” を携えて公判を見守った。
・ちなみにこの時の喜舎場さんはりっぱな中年太りの体形だった。
・昭和39(1964)年に山原派と泡瀬派の仲が険悪になった際、当時アシバー業界を引退した喜舎場さんが無理やり両派の調停にひっぱりだされた。そして手打ち式を行うもうまくいかずに両派の仲はさらに険悪になった。
・当時の新聞を見ると、山原派ではなくて “本部派” と記載されている。
・山原派と泡瀬派の仲が決定的に悪化したのは、昭和39(1964)年に安慶田の森乃ホテル内で行われた賭博現場を警察に摘発されたから。ちなみにこの賭博は山原派と泡瀬派が持ち回りで開帳していたが、警察のガサがはいったのは泡瀬派の時だった。その後喜舎場さんのシボレーに銃弾が撃ち込まれて両派の対立が決定的になる。
・昭和40(1965)年8月の琉球新報記事によると、泡瀬区長から「泡瀬派との表記は地区のイメージが悪くなるから使わないでほしい」とマスコミに対してクレームが入った。
・昭和40(1965)年8月28日、普天間のすずらん通りで山原派と泡瀬派の対立があり、泡瀬派の組員が死亡した。実行犯の山原派組員は本土に逃走するも大阪で捕まり、そして大阪で裁判にかけられた。琉球住民が沖縄で起こした犯罪に対して本土で逮捕および裁判にかけられたのはこれが初めてのケースである。
・喜舎場さんは当時メタボ体形だったにも関わらず、昭和41(1966)年4月に瑞慶覧で銃撃されたとき米軍基地のフェンスをよじのぼって逃走、九死に一生を得た。
・泡瀬派のボス喜屋武盛晃は喜舎場さんにひとこと詫びを入れて、昭和41(1966)年8月に泡瀬派を解散した。
※泡瀬派解散は、昭和42(1967)年1月説もある。
・6回にわたる沖縄ヤクザ抗争で警察による検挙数が一番多かったのは、第3次沖縄抗争の時である。
・当時普天間派の顧問弁護士が、昭和43(1968)年に沖縄の歴史上初の銀行強盗事件を起こした。
・我が宜野湾市では沖縄ヤクザ抗争において、実に4度の殺人事件が起きている。そのうち2回は最高幹部が射殺された。
※4度のうち2度は真栄原、2度は普天間で、すべて射殺案件。
・昭和43(1968)年に11のタクシー会社が合流して県内最大のタクシー会社が設立されたが、その会社の初代社長は又吉世喜の弟である。
・当時の新聞に”コザのレストラン”あるいは “那覇の料亭” との記載が散見されるが、コザのレストランは “レストランブルーリボン” のことを指す場合が多い。那覇の料亭は読者の皆さんお察しのところ。
※当時、那覇市波の上にあった「料亭ひさご」を指す場合もある。
・沖縄連合旭琉会の本部は那覇市西にあった(旧那覇ショッピングセンターの向かい)。ゼンリンの地図で所在が確認できる。昭和51(1976)年12月までに那覇市辻に引っ越しをするが、その理由は賃貸契約が切れたため。ちなみに辻の本部は平成2(1990)年のゼンリン地図でも確認できる。
・那覇市繁多川にあった又吉世喜の自宅のとなりには派出所があった。
・多和田真山は本土復帰当時は刑務所内にいた。昭和48(1973)年に出所して、その後は不動産業を営んでいた。
今後面白いネタは入りしだい、不定期ではありますが当ブログにてアップしますので今回はこれにて終了します。