ユタの権威を増長させたもう一つの理由は医療行為が未発達だったことです。古来より世界共通で呪術=医術と相場が決まっていますが、琉球・沖縄の歴史においてユタの医療行為が禁止されたのは1884年(明治17)です。1885年(明治18)に医生教習所を設立して西洋医学の研修および医者の育成を始めるまでは、事実上ユタが医術(ウグァン)を行っていた状態でした。(正確には漢方および民間療法とユタのウグァンです)
ユタの医療行為がどのようなものであったかは、詳細な記録がないため不明ですが、沖縄県政五十年(太田朝敷、1931年刊行)の第五、懸の衛生施設と其功程の記述から察することができます。(旧漢字および文語調はブログ主にて訂正)
明治12年(1879)という年は、廃藩置県という空前の大革命があった記念すべき年だが、衛生上の立場からいうもまた忘るべからざる年である。即ち本県が初めてコレラに見舞われ、瞬く間に蔓延して1万1200余人の患者中、6400余人の死亡者を出したのだから、その勢いの猖獗なりしことは推して知るべしである。私の近い親類にもその犠牲になったものがあったが、その頃父は既に県庁に奉職していたので、伝染病予防の概念位は出来ていたものと見え、私などは葬式にも出さなかった。しかし一般県民はこれを魔の所為と迷信していたのであるから、村の入口にしめ縄を張るとか、金太鼓をたたいて廻るという始末。私なども病気の恐ろしさよりもそれが面白さに騒ぎ廻ったのである。驚いたのはコレラよりも新しい医院の諸君と県当局であったろう。これでは予防どころか、却って伝染を煽るようなものだ。
漢方医術は昔からかなり進んでいたようであるが、医者ユタという俚諺もある通り、病気は医者の診察とユタの祈祷と相待たなければ、治るものではないという迷信が、置県後もかなり長く保存されていた。明治12年(1879)のコレラ流行の時、金太鼓をたたいて騒いだのは、即ちユタの役目を受け持ったのである。
この調子では、ユタの医療行為によってどれ程の命が失われたか想像できません。それと衛生観念や出産の技術も未熟なところがあったため乳幼児死亡率が現在に比べると無茶苦茶高かったこともポイントです。古今東西問わず母親にとって幼子を亡くしてしまうことが最大の不幸と相場が決まっていますが、そのショックでユタコーヤー(ユタ買い)に走ってしまうのも無理はありません。ただし当時は漢方医を除くと病気の治療はユタの祈祷か民間療法に頼るしか方法がなく、その結果王国内の女性においてユタの権威の増長に歯止めがかからない状態になってしまったのです。
医者半分ユタ半分のことわざは廃藩置県後の沖縄社会でも有効で、西洋医学が導入された後もユタの祈祷に頼る女性が後を絶ちませんでした。ただしアメリカ軍の占領行政時代、および本土復帰後の医療設備の充実によって乳幼児死亡率が激減します。それと衛生観念の発達によってユタが医療行為を行う余地がほとんどなくなる社会環境になります。歴史を振り返ると現代の女性は非常に恵まれていると思わざるを得ません。(続く)