125年前の首里の様子

今回は明治26年(1893年)当時の首里の様子を紹介します。笹森儀助著『南島探験』からの引用ですが、明治12年(1879年)の廃藩置県から14年、旧都の寂れっぷりが予想の斜め上を行くレベルでブログ主は衝撃を受けました。著者の笹森儀助は青森県出身で、明治26年5月11日青森を発し、青森→東京→神戸→鹿児島を経由して同年6月1日に無事那覇港に到着します。彼が首里の尚氏宅の訪問および墳墓(玉陵)の参拝を試みたのが翌日の2日ですが、その時の様子を抜粋しましたので是非ご参照ください(原文およびブログ主による意訳を掲載しました)。

六月二日雨 六十九度九分

(中略)后二時那覇市役所に至り藩王尚氏ノ邸及歴代藩王ノ墳墓所在地ヲ問フ一里外ノ地首里〔藩王城ノ外郭ニアリ〕ニアリト云フヲ以テ直チニ行カント欲ス依テ思フモシ官吏ノ先導保護ニ依ラバ恰モ贋役人ノ如ク面白カラスト獨行ニ如カスト決シ發程セシニ日暮僅カニ所在地ニ達シ終ニ暗夜トナリ展墓スル能ハス午后十二時空ク歸宅セリ此日屢路ヲ誤リ人ニ遇ヘハコレヲ問フモ言語少シモ通セス如何トモスヘカラス僅々一里程ニアリナカラ空腹ナルモ食ヲ得ルニ由ナク足ヲ傷ルモ草鞋ヲ買フ所ナク實ニ意外ノ困難ヲ嘗メタリ是レ第一着ノ失敗ナリ

引用:笹森儀助著『南島探験』12㌻

【意訳】

6月2日雨 (華氏)69.6度(摂氏換算で約21度)

(中略)午後2時那覇市役所に至り、藩王尚氏の邸及び藩王の墳墓所在地を問う。一里(約4㌔)外の地、首里〔藩王城の外郭にあり〕にありと云うを以て、直ちに行かんと欲す。依って思うに、もし官吏の先導保護に依らば恰(あたか)も贋役人のごとく(見做されるのが)面白からずと(思い)独行に如かずと決し発程せしに、日暮僅かに所在地に達し終に暗夜となり展墓(てんぼ)する能わず。午後12時頃虚しく帰宅せり。この日しばしば路を誤り人に遇えばこれを問うも言語少しも通ぜず、如何ともすべからず。僅々一里程にありながら空腹なるも食を得るに由なく、足を傷(いため)るも草鞋(わらじ)を買う所なく、実に意外の困難を嘗めたり。これ第一の失敗なり。

何気ない記述ですが、琉球王国時代の首都である首里のあまりの寂れっぷりに驚きを禁じ得ません。笹森氏が宿泊していた場所はおそらく現在のゆいレール旭橋駅あたりと見做して間違いないでしょう。そこから首里城まで1里程(約4㌔)で車で15分前後の距離でしょうか。ちなみにブログ主は徒歩移動したことありますが、それでも1時間あまりで首里城まで行くことができました。

現在であれば他府県出身者であろうと沖縄県民であろうと特に問題ない行程ですが、125年前の沖縄においてはその常識が通用しないのです。一番の驚きは食事をする場所も草鞋も買う場所も見当たらなかったことです。これは当時の首里に「店舗」がなかったことを意味していますが、かつての琉球王国の首都にお店が見当たらないというのは衝撃意外何物でもありません。

是に由りて之を観れば、旧王国の首都でこの狀態ですから琉球王国末期および琉球藩の時代は現代人には想像できないレベルで社会全体が停滞していたと考えられます。なぜここまで惨状を極めたのか、慶長の役(1609年)における敗戦のツケを民間が負担しつづけた結果とも言えますが、おそらく最も重い負担を背負わされたであろう先島諸島については後日改めて当ブログにて紹介します。そして現代社会は本当に素晴らしい社会なんだなと『南島探験』を読みながら実感しているブログ主であります。