今回も笹森儀助著『南島探験』から明治26年(1893年)当時の那覇港の様子を紹介します。大正・昭和の時代の史料を参照すると、沖縄から大阪へ砂糖樽を輸送する運賃より、台湾から大阪まで輸送する(砂糖樽の)運賃のほうが安いとの記述が散見されます。ブログ主は沖縄より台湾のほうがはるかに多くの砂糖を輸出していたから(台湾 – 大阪間のほうが)輸送賃金が廉価でも引き合ったと考えていましたが、どうやらそれだけではなかったようです。先ずは下記史料をご参照ください。
又タ曰ク所謂不案内者ヨリ之レヲ云ヘハ砂糖ヲ沖繩ヨリ積ムト大島ヨリ積ト一日程モ近キ故運賃モ夫レ相應ニ低廉ナルヘシト思フナラン實際ハ然ラス今ハ沖繩ヨリ大阪迄砂糖一樽ノ運賃金三拾六錢ナリ又タ臺灣上海邊ヨリ大阪迄一樽ノ運賃貮拾五錢位ノ時アルモ是ハ荷物ノ下タ積ナレハ現ニ引キ合フコトナリ此等ノ港ハ波止場ノ建築良好ナレハ滊船横付ニシテ天候ノ如何ニ關ハラス直チニ荷物上下ノ便ヲ有シ常ニ徒費ノ時間アルナシ當港ノ如キハ然ラス少シ暴風ノ徴アレハ滊船モ碇泊スル能ハス直チニ十數里以外ノ慶良間群島ノ阿護浦ニ避ケサルヲ得ス僅カ二三千樽ノ荷ヲ積ニ天候ノ爲ニ一週間餘モ徒費スルコトアリ是等運賃ノ自然ニ貴キ原因ナリ故に里程近クモ荷物不便ノ位置ナレハ運賃從テ高ク里程遠キモ荷物便利ニ通路ニ燈臺等ノ便宜アレハ運賃自カラ廉價トナル是自然ノ勢實驗ニ徴シテ明白ナルモノナリ
笹森儀助著『南島探験』17~18㌻より抜粋
【意訳】また曰く、いわゆる不案内者(=現地の事情を知らない者?)よりこれを云へば、砂糖を沖縄より積むと大島より積むと一日程も近き故〔遠隔地に比して〕運賃もそれ相応に低廉なるべしと思うならん、実際は然(しか)らず。今は沖縄より大阪まで砂糖一樽の運賃金36銭なり、また台湾上海辺りより大阪まで一樽の運賃25銭位の時あるも、これは荷物の下た積なれば現に引き合うことなり。これら(台湾・上海)の港は波止場の建築良好なれば汽船横付にして天候の如何に関わらず直ちに荷物上下の便を有し、常に徒費(とひ)の時間あるなし。当港(那覇のこと)の如きは然らず、少し暴風の徴(しるし)あれば汽船も碇泊する能はず。直に10数里(約30㌔)以外の慶良間群島の阿護浦に避けざるを得ず。僅かに2~3千樽の荷を積に天候の爲に1週間余も徒費することあり。これら運賃の自然に貴(たか)き原因なり。故に里程近くも荷物不便の位置なれば運賃(も)従って高く、里程遠きも荷物便利に通路に灯台などの便宜あれば運賃自から廉価となる。これ自然の勢い(にて)実験に徴して明白なるものなり。
説明不要かと思いますが、当時の那覇港は大量の物資運搬には不向きのため、どうしても運賃が割高になってしまうのです。那覇港管理組合のホームページを参照すると、”大正4年には1,200トン級の船舶3隻が同時係留可能となりました”と記載があるので、それまでは桟橋もなく、旅客や物資を伝運船で碇泊中の船に運んでいたのです。
言い換えると那覇の港は大正時代になってようやく大量物資の輸送に対応できる能力を有したのです。そうなると15世紀から16世紀におけるいわゆる”大交易時代”には、物資の大量輸送に不向きな港をメインに中継貿易に励んでいたことになります。いったい何を中継していたのか、それと国全体を潤すだけの富を稼ぎ出すことができたのか、これらの疑問に対してブログ主は不勉強ゆえ即答することができません。”時代が違うから”と一言で済ませれば楽だなと思いつつ今回の記事を終えます。
*余談ですが、『当間重剛回想録』の中で泊港の拡張について詳細に記述した箇所があります。当間氏の那覇市長時代の実績でもありますが、戦前沖縄の港湾能力を顧みると戦後の泊港の拡張整備は歴史的快挙あり、当間氏はそのことを実感して回想録に精しく言及したことがブログ主にも理解できました。