黑い首里城

令和元(2019)年10月31日の首里城正殿および関連7棟の火災がキッカケで、ブログ主も改めて首里城関連の史料をいろいろチェックしようと思い立ちました。実は建築に関しては素人(プラスあまり興味がない)であることと、首里城に関しては語り尽され感があったので当ブログでもほとんど取り上げていませんが、今回改めて調べてみること思わぬことに気がつきましたので早速ですが纏めてみました。

首里城正殿は令和の火災を含めると5回焼失しています。1回目から3回目までは『球陽』の記載をまとめると、

一回目(1453年):志魯・布里の乱で焼失。再建時期については詳細な記載なし。

二回目(1660年):尚質王13年時、出火原因は不明。再建は尚貞王3(1671)年でこの時初めて瓦葺になる。

三回目(1709年):尚益王元年、正殿・北殿・南殿が焼失、出火原因は不明。再建は尚益王4(1712)年ごろで、尚敬王17(1729)年には改築工事が行われた。

になります。実は三回目の焼失に関して再建時期は明記されていないのですが、尚敬王の冊封(1719年)までには正殿・北殿・南殿が再建されたのは間違いなさそうです(『中山傳信錄』参照)。ちなみに伊東忠太先生の『琉球』には「現在の建築は享保14(1729)の重建〔=再建〕で(中略)」と記載されていますが、これはどうやら1729年の改築のことを指しているかと思われます。

ここまではネット上の検索でも調べることができると思いますが、実は3回目の焼失の後の展開があまりにもおかしすぎるのです。

丑年の大飢饉

尚益王が即位した1709年に首里城が火災に遭いますが、実はその年に歴史的な大飢饉が発生しています。いわゆる”丑年の大飢饉”ですが、その様子は『球陽』にも記載があるので該当部分を書き写しました。ぜひご参照ください。

大饑饉シテ人民餓莩ス 本国連年凶荒スコノ年ニ至リ颱颶屢ハゝ起ツテ旱魃肆ニ虐セリ田野焦クガ如クシテ禾稲枯稿ス是レニ由リ新穀秀テス旧穀已ニ竭キテ民人食ヲ失フ或ハ蔌菜ヲ採リ或木皮ヲ剝ギ日ニ以吃食ヲナス冬末ニ至リ山蔌海菜モ収拾已ニ尽キテ道塗ニ餓死スル者共ニ計レハ三千百九十九人ナリ翌年ノ春盗賊四モニ起コリ士民節ヲ失フ密ニ人家ニ入ツテ器用ヲ刧盗シ道路ニ迎接シテ衣食ヲ奪取ス

説明不要かとは思いますが、大雑把に説明すると「台風、旱魃などの影響で作物が実らず、食べ物が尽きたあとは餓死者が多数(3199人)発生し、その後治安が極端に悪くなった」になります。同書によると民間の富裕層(地頭代クラス)が備蓄米を無利息貸し出しして救済にあたった記述が散見されますが、実はこのような惨状のなかで首里城は再建されているのです。

ちなみに首里城再建にあたっては薩摩の島津家から木材などの援助がありましたが、労働力は自前で調達しなければなりません。しかも間の悪いことに1712年に尚益王が亡くなって、1713年に尚敬王が後を継ぎますが、何と王府は清国に対して冊封を要請しているのです。

“丑年の大飢饉”のあとの社会情勢の不安の中で、巨額の費用を要する冊封を招聘するなんて現代のセンスではとても考えつかないのですが、プラスこの時期に”那覇港の浚渫工事”も行っています。ちなみに蔡温(当時は末吉親方)が冊封使の接待で苦労した有名な話がこの時の冊封で、つまり丑年の飢饉からの10年で王府は社会の富を使い果すことになったのです。

酷使無双

『球陽』の巻11を参照すると、尚敬王13(1725)年興味深い記述がありました。内容は以下の読み下し文を参照ください。

首里泊那覇久米村ノ居民名コトニ毎月丁銭二貫文ヲ免ス 己亥ノ年王府冊封ヲ受ク此レニ因リ府庫一空*シテ国用欠クコト多シ乃チ首里那覇等処ノ百姓ヨリ丁銭ヲ取ルソノ次年ヨリ起マリ是ニ至ツテ止ム

*冊封即ち即位式の諸費用は莫大にして五年前より準備し諸地頭をはじめ民間よりも借金や寄付金を勧告し更に男女一人に付き二貫文を出銭せしめたという。

これも説明不要かと思われますが、「冊封後に王府の予算不足のため首里や那覇などの居民たちに特別課税したが、1725年に廃止した」となります。つまり国力を超えた財政出動のツケを民間に背負わせた訳であって、正直なところ開いた口がふさがらないというか何というか言葉が詰まります。

”苛政はトラより甚だし”を地でいくお話ですが、では何が言いたいかといえば

今度の首里城再建は民力に応じて慎重に行ってほしい

ことに尽きます。かつての再建時には民間の資力を使い果たした悲惨な歴史があることを念頭において、”令和の首里城は再建および維持管理に関して民間の経済を損なわないよう配慮すべきである”とブログ主は確信せざるを得ないのです(終わり)。

 

 

 

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