今回は偶然発見した「沖縄世論」2009(平成21年)秋季号の記事を紹介します。読者の皆さんはご存じとは思いますが、同年9月の衆院選で政権与党の自民党が敗北したことで、民主党(当時)を中心とした連立政権が誕生します。鳩山政権誕生で普天間基地の県外移設が実現するのではとの期待感が沖縄県に充満したいた時期でもあり、「沖縄世論」の記事はその空気を反映した出来栄えになっています。
いまとなっては「なんでこんなに浮かれていたんだろう」と思う人もいるかもしれませんが、当時の沖縄社会の雰囲気を知る上での絶好の史料ですのでブログ主が記事全文を書き写しました。ただし、ただ書き写すだけでは物足りないので一部文章を太字に訂正しましたのでご了承ください。では読者のみなさん、是非ご参照ください。
人物 – 内閣総理大臣 鳩山由紀夫
鳩山由紀夫氏は、衆院選の最中に来沖し、政権交代の暁には普天間基地の県外・国外移設を沖縄県民に公約した。歴代総理の中で初めての政権公約であり、それが実現すれば
沖縄平和賞の受賞
は間違いないであろう。
本誌「人物編」では特別に鳩山由紀夫氏を紹介した。
日本のケネディ家
鳩山家と言えば、政界きっての名門一家だ。曽祖父・和夫氏は元衆院議長、祖父・一郎氏は元首相で初代自民党総裁、父・威一郎氏は元外相。米国の一家にならい、「日本のケネディ家」とも称される。
四代目にあたる由紀夫氏だが、本人も周囲も、政界入りは考えてもみなかったという。算数好きでおとなしい由紀夫氏より、幼稚園の頃から「総理大臣になる」と言い切っていた弟の邦夫氏の方が、政治家向きだと見られている。
学問の世界を志した由紀夫氏にとっての転機は名門スタンフォード大学院への留学だった。米国人の愛国心に触れ、「日本はこのままでいいのか」と真剣に考えるようになり、次第に政界への関心を強めていった。
沖縄との政治公約は普天間基地の県外移設
1986年衆参同日選挙で、衆院旧北海道四区から自民党公認で出馬、参院議員だった威一郎氏、衆院議員だった邦夫両氏とともに、親子でトリプル当選を果たした。
自民党一族の一員として政界デビューを果たした由紀夫氏だが、リクルート事件などの政治腐敗を目の当たりにし、93年、自民党を離党。以降は、新党さきがけ、旧・民主党、新しい民主党を次々に結成し、自民党に変わる受け皿作りに奔走する皮肉な役回りを担うことになる。
民主党では代表や幹事長など要職を歴任。だが、2002年に代表に三選された直後には、自由党との合流構想や、幹事長人事への反発から「鳩山降ろし」の憂き目に遭い、代表辞任に追い込まれたこともある。
決断にあたっては
「最後に意見を聞いた人に影響される」
と優柔不断を指摘され続けてきたが、いったん決めたらテコでも動かない頑固な側面も併せ持つ。96年の旧・民主党結成にあたっては、新党さきがけの武村正義氏らの参加を拒否したことが「排除の論理」と呼ばれ、政治信条として掲げる「友愛」と共に流行語大賞に選ばれた。
中曽根元首相に
「ソフトクリーム」
と揶揄(やゆ)されたこともあるが、最近は
「ソフトクリームからアイスキャンディーになった。芯が出てきた」
と胸を張る。
夫人の幸(みゆき)さん(66)、とは知人の紹介で知り合い、由紀夫氏が米国留学中の75年に結婚した。
”最後は自分が決める” 鳩山総理の指導力に期待
さて、鳩山総理と沖縄県民との公約のことだが、普天間移設の公約履行に最も前向きだった岡田克也外相が、最近はなんと普天間基地の「県外移設は考えられない」と定例記者会見で発言し、国会でもこの姿勢が貫かれている。
ところが、鳩山総理は意味深で、
「最後は自分が決める」
と国会答弁しており、今後の動向が注目される。鳩山総理は「頑固でテコでも動かない」という確固たる信念を堅持してほしいものだ。(神山吉光)