瀬長亀次郎さんが決して口外しなかったこと~高嶺朝光さんの証言

今回は高嶺朝光(たかみね・ちょうこう)さんの著書『新聞五十年』から、戦前の瀬長亀次郎さんに関する記述を掲載します。瀬長さんはたしか昭和6年(1931)に共産党に入党、本土で労働組合活動中に検挙され、3年の懲役刑を受けます。そのうち1年は沖縄刑務所に服役して、出所後は県の工業指導書で蒔絵職人として働きます。

このあたりの経歴はご本人や瀬長フミさんの回顧録、あるいは高嶺朝光さんの証言と一致するので間違いないでしょう。面白いのは特高の刑事の斡旋があって、その結果として瀬長さんが沖縄毎日新聞に就職できた件です。当時の瀬長さんは特高の監視に対してプレッシャーを感じていたらしく、鹿児島に逃げようかと本気で思案していました。昭和6年(1931)社会主義活動家の真栄田一郎さんが特高に捕まり、拷問のすえ発狂→死亡した案件(後述参照)はよく知られていましたので、不屈の時代とちがってビビッてしまうのも仕様がありません。

沖縄朝日新聞時代の亀さんは優秀な記者として働きます。このあたりの事情は『新聞五十年』から抜粋しましたので、是非ご参照ください。面白いのは瀬長さんが戦時中に“沖縄農業会”に勤務していたことを証言している点です。

*”訛報”の新語で落着(194 – 196㌻)

(中略)昭和10年ごろ、「頭のいい男がいるから記者にしてくれんか」と横田という特高課長から依頼があった。それでその青年が私に会いにきた。それが瀬長君との初体面だった。瀬長君は本土で社会主義運動に関係して検挙され、鹿児島から沖縄の刑務所を転々として刑期を終えると県の工業指導所にはいった。ずっと特高の監視をうけていたらしい。横田特高課長はコチコチの特高タイプとは違い、甥が学生運動に関係したとかで、瀬長君にも柔軟な態度をとったようだ。

工業指導所時代の瀬長君は一人前の蒔絵工までウデを上げたが、日給わずかに45銭。「キミ、生活は楽ではないようだね。新聞記者になったらどうか」とすすめたのが、知り合いの沖縄朝日新聞の浦崎康華(うらさき・こうか)記者。浦崎君があっせんして瀬長君は沖縄朝日に入社した – と、これは瀬長君の話である。そういうこともあったのだろう。

*従軍記で給料を捻出(196 – 198㌻)

沖縄朝日新聞にはいった瀬長亀次郎君は、工業指導所の蒔絵工の給料から一挙に倍以上の30円也の月給取りになって、大分助かったという。首里の玉城という酒屋に下宿したらしいが、酒屋の息子が琉球新報の記者をしていて、その母親が息子の同業者で1人住まいの瀬長君に同情四、着物を縫ってくれたりする – という話だった。

どこか人をひきるけるものがあったのだろう。瀬長君が結婚したとき、「1つみんなで祝ってやろう」と沖縄朝日新聞の編集部員が世話役となって、那覇市辻町の花咲亭で披露宴を催した。志喜屋孝信(瀬長君の中学の恩師、終戦後の沖縄民政府知事)、瀬長清(豊見城出身の県議)氏らも顔をみせた。1円50銭でみやげまでつくという当時としては豪勢な宴会だった。「新聞記者は記事専門とばかり思っていたのに、同僚の結婚の世話もするんだね」と、来賓の先輩達が私たちを苦笑させたフィナーレも紹介しておこう。

瀬長君の入社後、昭和バスの運転手達が会社に待遇改善を要求して、ストライキを起こした。その記事を瀬長君に書かせたら、さっそく昭和バスの重役の久保田盛春氏が抗議に来た。県政を担当した関係で県会議員の久保田氏とは前からの知り合いだ。「両方の言い分を聞いて公平に記事を書いてくれなければ困る」と久保田氏、にがい顔をした。瀬長君の記事が、運転手側の肩を持ちすぎる – というのである。「そんなことありませんよ」となだめて帰ってもらった。記事にも瀬長君らしさが出ていたという一例。

昭和12年(1937)に日華事変が勃発すると、沖縄の新聞記者から真っ先に瀬長君が召集された。ちょうど南京が陥落して日本中が提灯行列に湧いていたころだ。沖縄朝日新聞は、輸送部隊に入隊した瀬長君に従軍記を送ってもらい「○○発、瀬長沖縄朝日新聞特派員」という風に紙面をかざった。瀬長君の留守宅には給料の半額の留守家族手当を支給した。この種の手当てを設けたのは、沖縄では私たちが最も早かったと思う。

瀬長君の話によると - 子供が生まれて生活費が重むという時に兵隊にとられて途方にくれた。給料はもらいないだろう、といって外に収入の当てはない。それで編集長に相談すると「何もしないで給料を出すわけにはいかないはずだから、戦争体験記を送りたまえ。それだと立派に理由が立つ」と解決策を与えたという。或は、そうだったかも知れぬ(私は忘れてしまっている)。

漢口攻略戦など瀬長君の記事を一ページぐらい扱った記憶がある。「強行軍に疲れ果てた兵隊たちが、馬のシッポを握って歩く」といったリアルな描写に「さすがは新聞記者」と感心した、もちろん、いたるところに検閲の目が光る時代だから、戦争に反対の気持ちを持っていても、反対だとはっきり書けない。書いても軍が許さない。また、戦闘と戦闘の間でペンを取るのは机に向かうのとわけが違う。精神的にも肉体的にも大変だったと思う。瀬長君の記事は、ところどころスミで消され、ベタベタと「検閲ずみ」のハンコが押されていた。思想的に要注意の瀬長君に、それでも軍側が通信を認めたのは、どうせ検閲で取っちめられるし、結局は士気高揚につながるとタカをくくったのだろう。

瀬長君は帰還すると一たん沖縄朝日新聞に戻ってから大阪毎日新聞那覇支局へ移った。沖縄戦の前、毎日新聞をやめて沖縄県農業会の課長をつとめていた瀬長君が、ある日沖縄新報社に現れて「これを上げましょう」とポンと机上に置いたのが黒糖でつくった金華糖の一箱。物資欠乏の折から滅多にお目にかかれない貴重品だった(中略)

『沖縄大百科事典』より抜粋。

真栄田一郎 まえだ・いちろう 1905.05.24~1933.03.14(明治38~昭和8)社会主義活動の活動家。本名は之璞(しばく)。那覇区久米に生まれる。長兄勝朗は新聞記者、姉冬子は歌人で伊波普猷夫人。沖縄県立一中を中退、1920年(大正9)ごろ上阪。大阪では松本三益と交流、赤琉会に参加、24年に結成された関西沖縄県人会の活動家となる。この間、井之口政雄の指導によって社会主義の理論学習を深め、松本とともに大阪と沖縄の運動の連携について、具体的な検討をすすめる。27年(昭和2)11月帰郷。沖縄青年同盟が実践活動を展開し、社会科学研究会も発足した時期である。28年2月、第1回普通選挙に井之口が労農党公認で沖縄から立候補、真栄田らは労農党那覇支部を設立するとともに共産党細胞を組織して選挙戦をたたかった。そのさい、那覇署は真栄田の留守中に出頭命令を出し、出頭しなかったとして科料5円を言い渡した。活動家達はこれを不当として公判闘争を展開し、無罪をかちとる。その後上京、同年11月帰郷して『沖縄労農タイムス』を松本から引き継ぐ。29年10月、再び上京、志多伯克進、松本らと〈労農同盟沖縄対策協議会〉を開催して運動方針を協議。〈沖縄県一般方針に対するテーゼ〉を作成、農村青年の左翼化、小学校教員の組織組合などを計画する。こうして、31年1月3日、OIL〈沖縄教育労働者組合〉が結成され、中央指導部の一員となる。しかし、実践活動に入る直前2月5日にほかのメンバーとともに逮捕・投獄され、予審を終わって拘置所のなかで精神に異常をきたし、家族に引き渡された。実家は年老いた祖母1人であったので身柄引取利りに出向いたのは、松本三戒〈三益の弟〉と国吉真哲であった。真栄田は脳天に10cmほどの生疵を3本もつけられ半死の状態であった。同志たちの献身的な看護のなか、27歳の生涯を閉じた。

『昭和の沖縄』琉球新報社会部編  – 社会主義運動(107 -111㌻)の項より大城昌夫(当時は永繁と名乗る)の証言を抜粋。大城さんは昭和6年結成のOIL(沖縄教育労働者組合)の中央指導者の1人で、真栄田さんと同じく逮捕された人物です。

〈4,5人の刑事が取り囲み、“何かやっているのだろう”と質問、やってないと答えると竹刀で打つし、コンマを入れるといって足で体じゅうを代わる代わるけったりした。これが1日に2,3回あった。誘導もあった。そばを食わせたり、たばこを吸わせたりするが、供述をこばむとまた暴行の雨。消化できずに食べたそばがそのまま出てきた。両足は内出血で真っ黒。わずか三寸の階段を登ることができなかった〉

〈親友の真栄田氏と安里氏は拷問のため獄中で発狂、出所後間もなく死亡。特に真栄田氏は脳天に10センチの生疵を3本もつけられ半死の状態であった〉(『沖縄の無産運動』)