「会長はワンマンで、あまりの横暴さにことしの夏ごろから組織内でも不満が沸き上がっていた」。今回の多和田会長射殺事件の主犯・糸数真は逮捕後の取り調べに対し、こう動機を自供している。単純にそれだけとは思えないが、県警の暴力団担当の捜査員らの話を総合しても、多和田会長の独裁ぶりは最近とみに強まって来ていたという。
もともと、旭琉会は “寄り合い所帯” の様なものだった。本土復帰を前に、それまで抗争を続けていた那覇派や山原派などの暴力団が、本土暴力団の進出を阻止するために団結したのが旭琉会のスタート。そのため、初代会長には言わば傍系だった仲本善忠が就き、実質的な権限は両派の首領だった又吉世喜、新城喜文理事長が握っていた。
“独裁” に不満噴出 / 総長・縄張り制が波紋
ところが、両理事長が殺害され、仲本会長も逮捕されたことから、若手の実力者だった多和田会長が大抜てきされる。もちろん、最初のころは会長にそれほど大きな力はなかった。那覇派やコザ派時代からの実力者も多く、言わば合議制に近かったという。
会の組織もしっかりしたものではなく、20以上の組やグループがそれぞれ独自に活動、資金源も自分たちで確保する独立採算制の様な形態だった。当然、会長が最高実力者とはいれ、不安定な部分があり、多和田会長が一家総長制と縄張り制を取り入れたのも、組織固めというより、自らの立場を安定させ、権力を自分に集中するのが大きな目的だった。
ところが、それが大きな波紋を生むことになる。
現在の旭琉会は本家を除いて14の一家だが、そのうち那覇市に本拠を持つのが6一家、沖縄市に4一家、あとは与那原、宜野湾、具志川、石川などが本拠になっている。
ところが、縄張り制が実施されるとこれまでの自分たちの本拠を他の一家に譲らねばならないケースが出て来る。また、同じ那覇市内でも、辻や前島、桜坂などの飲食街と小禄や久茂地などでは縄張り料の大きさが違って来る。縄張り制の実施によって弱体化する一家が、勢力を伸ばす一家に不満を持ったのも当然だった。
しかし、これら不満の声を無視して多和田会長は強行する。そして、多和田会長子飼いの一家、いわゆる主流派が大きく勢力を伸ばす。縄張りの線引きは多和田会長とその周辺スタッフが決定しており、旭琉会内部に亀裂が入り始めることになる。
最初のころ、不満を漏らすのは一部の一家だけだったが、そのうち全体に及ぶようになり、口にこそ出さないが多和田会長を敬遠する一家も増えて来たという。言わば、自分の権力を絶対的にするはずの制度が文字通り自分の首を絞めたわけだ。
しかし、多和田会長は旭琉会の中に自分をにくむ者がいるとは思いもよらなかったのか、殺された時もまったく無防備だった。(昭和57年10月12日付沖縄タイムス11面)
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