今回は琉球・沖縄の歴史における風呂文化について少し言及します。国王やその女官たちは別として、ブログ主は琉球・沖縄の歴史において”入浴”に関する記述が非常に少ないのが常に頭のなかにひっかかっていました。
衛生観念が皆無というわけではないのですが、それにしては入浴に言及する箇所が極めて見つけにくい。実はブログ主が最初に確認したのは河原田盛美著『琉球紀行』の一節です。全文を書き写しますのでご参照ください。
○浴湯スルモノナシ故に浴湯ナシ身體健康を害スルニ至ル
○当地ニ創ムヘキモノハ浴場場、割烹店、陸軍御用洗濯屋、同裁縫屋、納涼水茶屋、舟宿、新聞屋、兼縦覧屋、諸品売買及両替ヲ兼シ商店、魚肆、菜舗牛豚肉舗、大島及道之島ノ小蒸気、女工場、植物屋、貝細工屋
引用:明治九年河原田盛美著『琉球紀行』
この記述を信用すると、明治9年(1876年)に那覇あるいは首里には浴場(ユーフルヤー)がなかったことが分かります。河原田盛美さんの記述だけでは物足りないので、もうひとつ明治34年の琉球新報の記事を紹介します。
明治十七八年の頃までは那覇の市内にさへ湯屋を業とするものなかりき婦人の如きは各自の家に設けてある風呂に浴するさへ遠慮する位ひにて嚴に人目を避けて以て年に何回雜と腰湯を使ふに過きざりしが今日に於ては那覇は勿論田舎に於ても一寸繁昌する所には町湯なき所なく上下共に男女を問はす三日をあけず入力せざれは心持もよからずと云ふ程になれるは是れ畢竟習慣の然らしむる所なり
引用:明治34年5月17日付琉球新報2面
上記の引用は『清潔法』と題したコラムでおそらく執筆者は太田朝敷先生です。湯屋に関する記述が『琉球紀行』の内容と一致しますので、やはり廃藩置県当時は沖縄社会にはユーフルヤーはなかったと見て間違いありません。
女性の入浴回数の異常なまでの少なさ
明治34年の琉球新報の記事にはさらっととんでもないことが記載されていますが、それは「婦人の如きは各自の家に設けてある風呂に浴するさへ遠慮する位ひにて嚴に人目を避けて以て年に何回雜と腰湯を使ふに過きざりしが(中略)」の部分で、つまり琉球の女性たちは定期的に入浴する習慣がなかったのです。
組踊り「銘苅子」などを参照すると、全く入浴しなかったわけではなさそうですが、亜熱帯地方の沖縄で年に数回しか入浴しなかったのは現代人からするとちょっと理解しづらいところです。太田先生の証言だけでは物足りないので、東恩納寛惇先生の証言も併せてご参照ください
九、女子の服装
明治十二年先侯(尚泰候のこと)最初の御東上の時、随員の婦人の方々が神戸に上陸された時に何れも夫君の紋付羽織を羽織頭は繭鉢巻(マンサージ)で包み、一人分の男子袋を二人で片々つゝはめ残りの手を懐に押込んで通つたと云ふやうな珍妙な話は最早昔の夢となつた。
白粉は愚か石鹸使ふ事すら否洗場に行く事すら爪弾きされた女子社会に僅かに廿四五年の後には半白の六十媼サンが丸髷姿で東京見物と洒落込むまでに世の中が進んで來ては誰れか時勢の大潮を驚歎せぬものがあらうぞ。
引用:大正6年9月24日付琉球新報、『偉大なる二十五年』東恩納寛惇より抜粋
東恩納寛惇先生の証言における「女子社会」はおそらく那覇や首里の士族のことかと思われますが、「洗場に行く事すら爪弾きされた女子社会」というフレーズは明治34年の琉球新報の記事内容と一致します。何故ここまで入浴を嫌ったのか逆に気になってしょうがありません。
入浴の慣習は日本人がもたらした
明治も30年前後になると沖縄県人も積極的に入浴するようになります。明治27年(1894年)に刊行された笹森儀助著『南島探険』には那覇滞在時における入浴に関する記述がありますし、明治31年以降の琉球新報にも湯屋に関するエピソードが散見されるようになります。
「今日に於ては那覇は勿論田舎に於ても一寸繁昌する所には町湯なき所なく上下共に男女を問はす三日をあけず入力せざれは心持もよからずと云ふ程になれるは是れ畢竟習慣の然らしむる所なり」という上記の引用は本当の話で、明治後期から大正時代にかけてユーフルヤーは沖縄社会で欠かすことができない程に入浴の習慣が定着します。
太田先生は明治34年1月に掲載された『清潔法』というコラムのなかで、
全國を通觀するときは言語風俗の差異は國々に依りてあり本縣の方言が普通語と異なるは猶ほ薩奥の方言が普通語と異なるか如し風俗に於ても亦然りとす只本縣の特色として見るべきものは不淸潔の點にあり日本國中不淸潔を以て特色を現はす所は本縣と台灣なるべし
と沖縄社会における衛生観念の低さを厳しく指摘していますが、本土からもたらされた入浴の慣習が沖縄県人に与えた影響は極めて大きなものがあり、現代では衛生面において本土と少しも差はありません。そしてこのことがが平均余命の上昇に大貢献したことは疑いの余地がありません。我々沖縄県民は明治から大正時代における民俗の変遷をもう少し冷静に見つめる必要があるのです。
最後に余談ですが、もしも琉球処分がうまくいかずに日支両属時代が続いていたなら、琉球における入浴を含む衛生観念は現代のように進歩したのかすごく気になることと、琉装女性の艶やかな姿を見るとなぜか複雑な心境になるのは気のせいだろうかと考え込んでしまったブログ主であります(終わり)。