今回は昭和の沖縄の一コマとして、沖縄二中(現在の那覇高校)野球部のエピソードを紹介します。昭和49(1974)年10月26日付琉球新報8面に平良浩著『昔の野球裏話 / 昭和初期のころ』と題した連載記事がありましたが、そのなかからじわじわくるお話をピックアップしました。
この連載記事には屋良朝苗先生・西銘順治さんも登場しますので、1930年代のエピソードであることが分かりますが、当時の学校生活と部活の “ブラック” ぶりはやはり現代からは想像もできないものがあるなと痛感した次第であります。まずは屋良先生のエピソードをご参照ください。
大会前の栄養補給
屋良朝苗先生(現県知事)の場合はちょっと怖くていささか寝にくかった。先生は柔道三段、それにスポーツ万能で、情熱的で大声(読谷ナマリ)を出し、手も早かった。また5年生のときは級の担任であった。
先生は教壇から白いチョークを選手らにめがけて投げたものだが、コントロールがよくたいがい命中した。ときには選手の前まできていきなり机もろ共ひっくり返した。物理の授業中に私が例によって、姿勢正しく寝ていた。先生が投げた白いチョークを、パッと片手で受けたとき、さすが野球選手だと、先生は苦笑しながらほめたので、教室は拍手が沸いた。それにしても本能とは珍しいものである。多分体は寝ていて、手だけは起きていたのだろう。今でも不思議に思っている。(下略)
ちなみに沖縄二中時代の屋良先生は “タックルサー” で有名で、その手のエピソードには事欠きません。というか沖縄二中の雰囲気が軍隊的なところがあり、猛烈な指導がまかり通っていたとのこと。現代では新聞沙汰になりそうな事例に事欠かなかったのかもしれません。
ちなみに小タイトルが “大会前の栄養補給” とありますが、その理由は以下書き写しをご参照ください。
大会が近づくと、野球部の予算から、栄養補給というほどのことではなかったが、市内のそば屋(万人屋、朝日屋)から「そば」の出前をとった。また、名物のアンモチもあったが、この場合は豪勢の部に入った。アンモチは小さなタライに一杯山盛り(約百個)だった。いざ食べ方始めの声が掛かると、意地汚い奴がいて、ぺっと己の手の平につばをはき、アンモチの山になすりつけたりした。そんなことでヘキエキする野郎は一人もいなかった。
また先輩からの差し入れで一斗カンカン入りの「タンナファクルー」や、ハチャグミがあって皆を喜ばした。
そういえば、小学校の場合は、毎年秋に催された那覇市の連合運動会近くになると、リレーの選手らに”クンチ”をつけるということで、鶏をつぶしていたのを思い出す。小学校の方が中学よりたしかに豪勢だった。
この手の話が日刊紙に掲載されるあたりに時代を感じますが、ちなみにここからが本番ですので心してご参照ください。
楚辺原頭に風なまぐさく
とにかく運動選手はインキンになやまされた。野球部員も例外ではなかった。いや一番多かったように思う。それは頭のてっぺんから爪先まで、ぴっしり着込んでいたのと、また毎日風呂に入る習慣がなかったのが原因だったと思う。ようするに、ブリチーであった。
練習終了後の黄昏時、大和入埜の松がうす黒く見えるのを待ちかねて、インキン選手らは、素裸になり、玉磯川の水で一応股間を清めた後、全員三塁線上に百㍍競争のように一列横隊に並ぶ、インキンにかからない下級生が、ヨーチンのびんを片手に、大きな筆にヨーチンをたっぷりふくませて、ひとり、ひとりの股間に思い切り叩くようにすりつける。
とたんに狂ったようなうめき声(ウーウー、アガーアガー、アキサミヨー)で、獣のように広い運動場を左に右にかけずりまわる。
ときには他の運動部の面々も参加した。多いときには三、四十名にもなった。野郎共の獣のようなうめき声とその体臭は、風清き楚辺原頭の静寂を破りそしてなまぐさいものにした。(下略)
ちなみに “楚辺原頭に風なまぐさく” の元ネタは恐らくこの応援歌です。
瀉原々頭(かたばるげんとう)風ゆるく 戰雲亂る秋の日や
堅氷鐵を鍛ひたる 强襲健兒の腕の花
咲かすは今ぞ時は來ぬ 立てや强襲野球團
参考までの元記事を貼り付けておきますが、こんなぶっちゃけな話を連載した琉球新報に驚きを感じつつ今回の記事を終えます。