革新共闘会議とオール沖縄会議との共通点について

Chobyo_Yara

今月30日投開票の沖縄知事選に関連して、ブログ主は沖縄における県知事選挙の原型ともいえる昭和43年(1968年)の琉球政府主席公選について調べてみました。この時の主席公選は前年(1967年)11月15日の佐藤・ジョンソン声明に対する是非を問う選挙になりました。その声明における沖縄返還に関する項目は下記を参照ください。

【文書名】1967年11月14日および15日のワシントンにおける会談後の佐藤栄作総理大臣とリンドン.B.ジョンソン大統領との間のコミュニケ

七 総理大臣と大統領は、沖縄および小笠原諸島について隔意なき討議をとげた。総理大臣は、沖縄の施政権の日本への返還に対する日本政府および日本国民の強い要望を強調し、日米両国政府および両国民の相互理解と信頼の上に立って妥当な解決を早急に求めるべきであると信ずる旨を述べた。総理大臣は、さらに、両国政府がここ両三年内に双方の満足しうる返還の時期につき合意すべきであることを強調した。大統領は、これら諸島の本土復帰に対する日本国民の要望は、十分理解しているところであると述べた。同時に、総理大臣と大統領は、これら諸島にある米国の軍事施設が極東における日本その他の自由諸国の安全を保障するため重要な役割を果たしていることを認めた。

討議の結果、総理大臣と大統領は、日米両国政府が、沖縄の施政権を日本に返還するとの方針の下に、かつ、以上の討議を考慮しつつ、沖縄の地位について共同かつ継続的な検討を行うことに合意した。

総理大臣と大統領は、さらに、施政権が日本に回復されることとなるときに起るであろう摩擦を最小限にするため、沖縄の住民とその制度の日本本土との一体化を進め、沖縄住民の経済的および社会的福祉を増進する措置がとられるべきであることに意見が一致した。両者は、この目的のために、那覇に琉球列島高等弁務官に対する諮問委員会を設置することに合意した。日米両政府および琉球政府は、この委員会に対し各一名の代表者と適当な要員を提供する。この委員会においては、沖縄と日本本土との間に残存している経済的および社会的障壁を除去する方向への実質的な進展をもたらすような勧告を案出することが期待される。東京の日米協議委員会は、諮問委員会の事業の進捗について高等弁務官から通報を受けるものとする。さらに、日本政府南方連絡事務所が高等弁務官および米国民政府と共通の関心事項について協議しうるようにするため、その機能が必要な範囲で拡大されるべきことにつき意見の一致をみた(中略)

一読すればお分かりのとおり、①声明発表から両三年で施政権を日本に返還するメドをつける、②在琉米軍基地は存続させる、③復帰後の摩擦を最小限にとどめるため沖縄と日本との制度を一本化するとの内容で、保守の沖縄自民党は賛成の立場、野党の立場であった革新共闘会議は反対の立場をとります。

革新共闘会議の主張は屋良朝苗氏の著書『沖縄はだまっていられない』(1969年刊行)の記載が一番わかりやすかったので、その箇所を抜粋します。

沖縄を道具にするな – 即時全面復帰の意味するもの

一時、機能別または地域分離返還の構想を本土政府がうち出したことがあります。それに対する米国側の反応は、”非現実的”であるということでした。そのため佐藤首相は、あらためて全面返還こそ現実的な要求であるとして、例の両三年にメドをつけるという外交交渉を行ってきたことは記憶に新しいことです(佐藤・ジョンソン声明のこと)。

事実、沖縄を統治している米国の意図は第一義的に軍事的戦略なものです。ただ、沖縄に基地を保持するばかりでなく、その効率を百パーセント有効に使いたいのです。そのため、米国は日本政府や国民から、沖縄基地についてなんらかの干渉や制約が加えられることを好みません。欲しているのは、いついかなる事態にでも対応できるように、沖縄全土を自由に使用できる排他、独占的な権利なのです。そうした権利行使の犠牲として、私たち県民は自治権を制限されたり、人権を侵害されたりしています。県民のため経済発展、社会福祉向上の施策があるにしても、第一の目的と両立する範囲内のものであり、またはそれに奉仕させる形のものです。

こうした基本的立場にある米国に対して、被害者である私たち県民が要求できるのは全面返還しかないはずです。すなわち”人間も含めて沖縄全土を自在に処理できる軍事的権利”を米国に放棄させることです。

また私たちは、全面復帰して日本国平和憲法のもとに抱き取られたとき、はじめて日本人としての諸権利が回復でき、未来を自分自身で決定できる本来の人間らしさを取り戻せるのです。さらに、沖縄の歴史は残念ながら隷属と差別の連続をしめしています。私たちは、祖国復帰のときを、こうした差別からの解放、そして県民が自分たちの福祉と人間的権利を自分たちで守ることのできる自主主体性確立の契機にしたいと思っています。長いものには巻かれる権力追従の姿勢でのぞむと、再び侮りを受けた昔の状態に戻るおそれがあります。

要約しましょう。軍事占領支配からの脱却、憲法で保障される日本国民としての諸権利の回復、そして沖縄県民としての自主主体性の確立、これらが私たち県民にとって、全面復帰のもっている内容です。もっと簡単明瞭にいいますと”人間性の回復”を願望しているのです。きわめて当然な願望であり要求です。そうした当然な要求の実現は一日でも一刻でも早いにこしたことはありません。したがって、私たちは即時全面復帰を当然なものとし、県民一丸となって率直に強く要求すべきです(中略)。

当時の革新共闘会議は、①米軍基地の存在こそ復帰を妨げる最大の要因であること、②日本国憲法の完全な適用こそが真の復帰であることと考えていたことがわかります。それならば革新共闘会議の流れをくむ現在のオール沖縄の一部(社民党、共産党など)が日本国憲法、特に九条にこだわる理由が理解できます。

この発想の根底には、「もう戦争はこりごりだ。二度と戦争に巻き込まれたくない」との強い想いがあります。当時の世代は沖縄戦で九死に一生を得た人たちが多く、米軍が沖縄から撤去されて日本国憲法が完全に適用されることで、本当の平和が訪れるのだと信じていた階層が屋良政権誕生を後押ししました。それ故に革新勢力は「沖縄は冷戦の最前線であり、すでに戦争に巻き込まれている」ことは絶対に認めることができなかったのです。これは已むを得ません。

あと意外なことかもしれませんが、当時の沖縄は現在よりも”アカ嫌い”が多かったです。ただし東アジアでの冷戦が激化し、沖縄はその前線であることを認めることのできない革新の立場につけこんで共産主義の影響が浸透したことは否定できません。結果としてそうなった感じです。

現在は「日本国憲法の完全な適用を妨げる最大の障害は在沖米軍基地である」という考え方で当時のセンスがまだ沖縄社会に色濃く残っています。この立場への是非は今回は言及しませんが、オール沖縄会議や基地反対の活動家たちの思想信条をある程度把握する上での参考になればと思い、今回の記事を作成しました。理解の一助になると幸いです。(終わり)

【補足】現代のオール沖縄会議は厳密には「これ以上の米軍基地負担は認めない(つまり日米安保条約や既存の在沖米軍基地の重要性は認める)」と考える現実派と「在沖米軍を撤去して日本国憲法を完全適用しなければならない」と考える伝統派に分かれていて、必ずしも結束しているわけではありません。既存マスコミはおそらく琉球新報は現実派、沖縄タイムスが伝統派に分類できます。