今回はネット上で “炎上芸人” として認知された感がある阿部岳記者(沖縄タイムス社)の言動は “なぜ笑いを取れるのか” についてまじめに考察します。
彼の言動は毎週月曜日の大弦小弦(沖縄タイムス紙面)、ツイッター(@ABETakashiOki)、そして You Tube (阿部岳Tube)などでチェックできますが、その結果ネット上でのコメントだけでなく、Share News Japan など保守系まとめサイトにも取り上げられるレベルで炎上するケースが散見されます。
なぜ彼のことばは燃えるのか、そして結果として笑いがとれるのか。ブログ主は阿部記者の言動パターンをチェックしているうちにきわめて興味深い点に気が付きました。その前に下記引用をご参照ください。
急性アノミーは、アメリカの政治学者ディグレイジアによって体系化されたが、このことの重大さは、すでにそれ以前、ヒトラーとフロイトによって発見されていた。
ヒトラーは、『わが闘争』の中で論じている。なぜ、ローマ・カトリックは、千年以上にもわたって、世界最大の宗教でありつづけることができたのだろう。その理由は、ローマ法王の絶対不可謬所性にある。どんなあやまちをおかしても、絶対にこれをあやまちとみとめないのだ。そのかわり、だまってこれをひっこめてしまう。
カトリック教会は、高度に組織化され、持続性のある、人為的な集団である。このような集団においては、どうしても、集団が解体しないように、またその構造に変化をきたさないようにするために、なんらかの外面的な強制が必要である。この強制をつづけるためには、指導者である特定の人格への帰依が必要である。そこには、みんなを平等に愛すると信ぜられる、理想化された指導者が存在しなければならない。この人あって、はじめてその団体は、十分に強力な団結を保ち、各成員が共通の目標に対して、没我的に驀進することができるようになるのである。
では、この結合が破壊されると、どうなるであろうか。このとき起こることは、集団におけるパニック現象である。秩序は守られなくなり、上官の命令はきかれなくなる。そして各人はせまい自己のみを考えるようになり、相互の信頼と結合はやぶれて、不気味に不安がしみこんでくる。
もっともよい例は、隊長が狼狽した軍隊にあらわれるパニックである。古くからよく知られている。第一次世界大戦において、カイゼルがオランダへ逃げたとの報が入るや、ドイツ陸軍はなお戦闘力を保持していたにもかかわらず、崩壊してしまった。この心理は、信頼しきった者に裏切られたときの集団心理の一例である。
ローマ法王は、どんなときになっても、一度も逃げたり狼狽したりしなかった。それゆえ、カトリック信者との結合は失われることなく、カトリック教会は高度に組織化された集団として持続できたのである。
これがヒトラーの説であるが、フロイトはこの現象に心理学的説明を与えた。彼が挙げている例もまた、戦場で隊長が腰をぬかしたとき、そのことが部下に巻き起こすパニックの分析である。戦争体験のある人ならばだれでも知っているように、敵の大軍にかこまれたとき、隊長がうろたえたらもう駄目である。生き残るチャンスも利用できない。部下は、どうしてよいかわからなくなってしまうのである。これに反し、隊長が余裕しゃくしゃくとしていれば、部下はどんな危機に際しても、実によく眠る。これである。急性アノミーはまた、ヒトラー=フロイトの定理ともいう。
引用:小室直樹博士著『ソビエト帝国の崩壊』(100~101㌻)
以前、当ブログで瀬長亀次郎さんについて取り上げました。その内容は人民党党首としての彼はカリスマの担い手として振る舞わざるを得ず、そのために彼は己の黒歴史については一度も言及しなかった件ですが、その説明のために小室博士の著書を引用しました。
阿部岳記者の行動パターンも上記引用と同じで、彼も己のミスは絶対と言っていいほど謝らないのです。この点は西村博之氏(以下ひろゆき氏)も同じですが、阿部記者はひろゆき氏と違って己が勝てそうな相手に対してのみ反撃を試みます。基本的に彼の言動に対する批判的反応にはほとんどスルーで対応しています。
ではなぜ彼のことばが結果として笑いを取ってしまうのか。その理由は
カリスマ性ゼロにもかかわらずヒトラーやローマ法王の如く己の言動の過ちを認めない姿勢が、結果的に支離滅裂な言動を拡大再生産しているからです。
つまり(己の言論の)フィードバック能力が “皆無” と言えますが、カリスマ性を持たない人物がヒトラーやローマ法王の真似をすればどうしてもそうなります。そしてその点に全く気が付いていないのが実に痛々しいし、結果的に日本中に上質な失笑を提供しているのです。ちなみにこの手のタイプは回りの諌言は(本能的に)理解できず、甘言しか聞きませんので、アドバイスするのは時間の無駄です。その言動を笑い飛ばしてやるのが正しい接し方だとブログ主は確信しています。
最後に『論語』に有名な一説がありますので紹介します。
子曰、唯上知與下愚不移(子の曰く、唯だ上知と下愚は移らず)
意訳すると “だれでも習いによって善くも悪くもなるが、ただとびきりの賢い者とどん底の愚か者とは変わらない” です。上知は上智と同義ですが、上智大学を卒業した彼の言動をチェックすると、上記引用の論語の一節は歴史的真理だなと痛感して今回の記事を終えます。