長嶺秋夫さんのいい話 – その2

今回も長嶺秋夫さんのいい話を掲載します。以前、当ブログにて『台湾および大陸の中国人との付き合いについての考察』という記事を配信しました。その中で長谷川慶太郎著『迷走する中国』からのエピソードを抜粋して、台湾および大陸の中国人との交際には事実に基づいた率直な態度が必要であることを明記しました。長嶺秋夫さんは複数回台湾を訪問していますが、彼も台湾の中国人と接する際に”率直さ”をもって対応しています。

台湾の中国人は我が沖縄のことを”琉球”と呼び、日本と琉球は別であると認識する傾向があります。長嶺さんはこの点について、「沖縄県民は、まぎれもない日本人であると同時に……」と明快に説明し、そのことが現地の人達からかえって好感をもって受け止められます。昭和40年(1965年)の話ですが、現在でも通用する内容ですので読者のみなさん、是非ご参照ください。


長嶺秋夫を語る – かけがえのない生きた記録(城間茂松)

昭和40年に、蒋介石総統の招きで台湾を訪問した。その頃の台湾では、蒋介石総統はまさしく生きた神様のような人であり、したがって、面談も決して容易ではなかった。しかし、長嶺議長とは主要局長を同席させて茶話会でもてなしてくれたことは深く印象に残っている。その後、同席された総統政治顧問の方治先生が、今までに余り例のあにことであると評しておられた。

その席で、蒋総統が長嶺議長に台湾の印象などについて質問しておられたが、議長が、台湾は特に治安が行きとどいていることや農業基盤整備も進んでいるので、今後大いに発展するだろう・・・と返事すると、ことのほか満足そうに喜んでおられた。また、台湾と琉球は古くから地理的にも一衣帯水の間柄にあり、今後、双方が発展していくためには何よりもまず人材の育成が急務であろうと力説しておられたが、その後、双方で急速に人材の交流が行われることになり、かつ、留学生の交流も盛んになってきた。

浦添市に開設された沖縄国際センターの精神は既にその頃につちかわれている。また、台湾では公務員の研修が盛んに行われており、各省大臣クラスまでも一ヵ所に集まって研修する。台中にある同研修所を訪問したとき、突如、講演を依頼され、極めて格調高い内容の話をして好評を得たが、その後の質問のとき、ある研修参加者から「琉球はもともとひとつの国家であり、現在もその形態は変わっていないと思うが、なぜ日本に復帰したがるのか。それは県民の総意か。琉球人は日本人ではない…」というかなり厳しい、やっかいな質問があった。しかし、長嶺議長は諭すようにして「沖縄県民は、まぎれもない日本人であると同時に、領土も日本の領土であり、日本への復帰については長い間の県民の熱望である」と極めて明確に答弁して会場から賞讃の拍手がしばらくやまなかった。その頃の台湾では、沖縄は”琉球”であって住民も琉球人であり、日本人ではないという強い願望があったし、まして蒋介石総統に招かれて訪台している手前、相手の感情は損ねてはまずいという、ことのほか気を遣いつつ遠慮しながらの訪問だったにしては台湾各地でかなりはっきりと発言しておられた。しかし、そうした長嶺議長の態度が、かえって非常に好感をもって迎えられた。(『私の歩んだ道』254~255㌻からの抜粋)

(注)このエピソードを紹介した城間茂松さんは当時長嶺さんの秘書を勤めていました。


【参照】長谷川慶太郎さんのエピソードも追記します。

(中略)筆者の意見では、何より重要なことが率直さである。中国人との交際に何より必要な点は、まず率直さである。さきにあげた、1970年、大阪万博のときの経験をとっても、著者は中国人に対し、その後は遠慮なく「われわれ日本人は敗戦国民であるという意識を持たない。その理由は日本の経済的成長である」といい切って、中国人と交際した。

著者のいう経済的成長の成功は、すでに1970年当時でも、香港の住民ならだれしも認めざるをえない事実である。この事実を率直に指摘することで、日本人が敗戦国民としての自信喪失の状態から脱却することができたという指摘も、これまた事実に何ら反しない。

こうしたことを率直に述べることで、逆に多くの中国人が、第二次世界大戦中、いかに日本軍の善戦、健闘によって苦しい経験をしたかを聞かせてもらうこともできた。彼らの発言を通じて、第二次世界大戦中、日本軍は中国戦線でいかに厳しい条件のもとにあっても、規律を崩さず、指揮官の命令に従って、友軍を助けるために、あえて死中に身を投じたかなど、敵軍であった中国軍将兵ですら認めざるをえない戦例を、これまた意外に多く聞かせてもらったのである。

こうした戦時中の経験、とくに戦争経験を著者に話してくれた中国人は、当時、国民党軍の将校として戦闘に参加していた人々であり、かれら自身も、戦後、こうしたみずからの体験を、中国人同士で話し合うことすらまったくなかったという。

つまり、中国人同士も内心、戦争の経験を一種の「タブー」視していたといってもよいかもしれない。

こうした経験を通じて、むしろ、中国人の日本に対する屈折した感情がいくらか緩められると、著者は体験を通じて信じている。(『迷走する中国』184~185㌻からの抜粋)