長嶺秋夫さんのいい話 – その1

今回はアメリカ世の時代(1945~1972)における立法院(現在の沖縄県議会)の名議長として名を馳せた長嶺秋夫(ながみね・あきお)さんのいい話を掲載します。彼は昭和29年3月(1954年3月)に第2回立法院議員に当選して18年間立法院副議長および議長を歴任し、戦後沖縄の政治を語る上で欠かせない人物と言っても過言ではありません。

長嶺氏の自叙伝である『私の歩んだ道』(昭和60年刊行)はブログ主もよく参照しますが、その中に佐藤栄作首相のエピソードが記載されていました。該当部分を抜粋します。長嶺さんの短い証言から佐藤首相の沖縄に対する”格別な想い”を感じ取ることができます。

沖縄に涙した佐藤首相

私(長嶺秋夫)が立法院議員になったのは第2回選挙(昭和29年)に選ばれてからだが、「立法院」が「県議会」いなるまで立法院議員を18年間続けた。これからは心によぎることなどを思い出すままに記したい。

「長嶺君、沖縄の政治ほど世界でむつかしいものはないよ」。そう言ったのは故佐藤栄作首相だった。

「あなた方は大政治家だよ。国土はわれわれ日本国、住んでいる人びとは日本国民であるのに、実際の行政、施政は米国だ。こんな国はどこにもないよ。領土も国民も何もかも台湾や韓国みたいになってしまう。これは何も問題はないんだ。いわゆる潜在主権は自分たちが持っている。だが、潜在主権だから守らねばならんといって、こちらが手を出そうとしたらアメリカが承知しない。内政干渉だと言うのだ」

「法律にしても沖縄には戦前の法律も、戦後、本土法を参考にして立法された新法もある。アメリカの出した布告、布令もある。これではもう混乱だ。こういう制度の中で、秩序よく問題を起こさず、やっていけるのは大政治家だ」

「われわれはもちろん、祖国として決してあなた方を見放しているのではない。思いはあなた方以上に持っている。親の身になったような気持ちなのだ。いわば里子にやったんだからね。それを思うと寝られないよ」

佐藤さんは静かに語りかけ、涙ぐんだ。佐藤さんの沖縄に対する率直な気持ちであったろう。佐藤さんは、沖縄の問題を持ち出すとすぐ泣いた。それには以上のような心情が根底にあったからだと思う。橋本(登美三郎)官房長官が話していたが、佐藤首相は、沖縄から陳情や要請があったら、日程をやりくりしてでも会って、かなえてやるようにと言いつけてあったという。私にも「私は、沖縄からの陳情とか、いろいろな問題があるときには必ず会ってあげます。どんなことがあっても。忙しい中なら立ち話でもいいじゃないか」と言っていた。だから会見の席でも「長嶺君、もう暑いし、ネクタイをはずそう」と言ってフランクに応対してくれた。佐藤さんのいいところだと感じた(中略)(『私の歩んだ道』216~217㌻より抜粋)

(注)太字の部分はアメリカ世の時代において、琉球(沖縄)の統治をややこしくした要因の一つです。法体系が複雑なため琉球政府の歴代の主席は、布告・布令、大日本帝国時代の法律、および群島政府時代の立法を、民立法(立法院で審議・可決された法律)に一本化することに苦心惨憺します。ブログ主は佐藤栄作首相がこの点に言及しているのはさすがだと感心した次第であります。