金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 喜舎場朝信

中国が「三国志」なら、コザ派(山原派)那覇派、普天間派、泡瀬派の四派が覇を競ってせめぎ合った沖縄ヤクザは、さながら「四国志」の世界だった。

そこで主役を張ったのはどういう男だちだったのか?

ここでは、その中の六人に焦点をしぼり、三代目旭琉会・金星一家金城正雄総長のコメントをもとに、その人物像を描き出してみた。

三代目旭琉会金星一家・金城正雄総長は、ごく初期のころから那覇派の首領・又吉世喜の舎弟分として那覇派の実務面を取り仕切ってきた。その実績が買われ、彼は沖縄連合旭琉会の結成時から二代目旭琉会の時代まで、事務総長の要職を務めた。三代目になって役職は後進に譲ったが、三代目旭琉会にあってはいわば長老格にあたる人物である。

金城総長は若い時代、又吉世喜と起居を共にしていたこともあって、連合以前の那覇派はもとより、沖縄ヤクザ全般についての生き字引的存在である。

喜舎場朝信(コザ派首領) 豪放磊落を地で行く「ターリー」

コザ派の首領は喜舎場朝信である。

金城「喜舎場朝信の読みは『キシャバチョウシン』。本土的な感覚では『トモノブ』でしょうが、かつては沖縄では名前は音読みされるのが一般的だった。喜舎場は『ターリー』と呼び慣わされましたが、これは通称というよりは尊称。もともとは中国語で、漢字を当てれば『大人』、その意味は『親方』または『父上』ですよ。昔、沖縄の士族や殿様や一家の長を『ターリー』と呼んだが、そのなごりで今日でも親方的な存在を下の者が『ターリー』と呼ぶんです」

ともあれ、喜舎場朝信が「ターリー」と呼び慣わされたことが、沖縄のおける彼の立場を端的にあらわしている。沖縄グレン隊の先駆けがコザ派であることは前述したとおりであるから、当初からその首領であった喜舎場朝信はいわば沖縄ヤクザの祖であり、頂点に立つ者なのである。

単に社会的立場から言えば那覇派の首領である又吉世喜(マタヨシセイキ)もターリーであり、事実そう呼ばれていたというが、それが通称にはならなかった。それは又吉にとっても喜舎場がターリーだったからだという。

金城「ターリーは、ひと言で言えばふところが深くて愛情豊かな、親分肌の人でした。コザ派のつわものどもを束ねていたんですから、それだけ人間が大きかったんです。身なりなんかはかまわなかった。いつも髭ぼうぼうで、いいものは着てるが着方はいいかげん。ざっくばらんで飾らない人なんです。

スターさん(又吉世喜)と私が訪ねていくと、まるで自分の息子が帰ってきたように無邪気に喜んで歓待してくれました。沖縄人の大きな人物の見本の一つのような人だと思います」

喜舎場朝信は「沖縄ヤクザの祖」である。

喜舎場がすべての始まりだったというわけではないにしても、そう呼ぶにふさわしい人物は彼をおいてほかにはいない。

喜舎場は、「戦果アギャー」の頭領として、コザ派を率いた。そのコザ派が沖縄ヤクザのさきがけだったのだから、喜舎場を祖を考えるのが妥当だろう。

喜舎場朝信とはどういう人物だったのか。

昭和元年、本部の生まれと言われるから、20代前半の若者たちから見れば年長者であるが、もちろん歳の差でターリーと呼ばれるようになったわけではあるまい。

喜舎場は軍隊あがりだったという。

20歳で、「この世のありったけの地獄を集めた戦場」と言われた沖縄戦を戦って生還したのだから、この世のありったけの地獄を見てきたのだろう。彼はその中で戦い、戦争が終わると今度は「戦果アギャー」として戦ったのである。「戦果」をあげたのは、当時の沖縄青年の中でもとくに勇敢で機敏な者たちだったはずである。喜舎場はその中でも抜きんでていてトップに立ったのだから、並の青年ではなかったことは確かだろう。

終戦直後の「戦果アギャー」の若者たちは、決しては反社会的な傾向を持つ集団ではなかった。もともとそういう者は沖縄にはいなかったのである。喜舎場は、どんな領域に進んでも頭角をあらわすような人物だったのだろうが、もし戦争がなかったら、それは決してヤクザの分野には入らなかったはずである。

彼は「戦果アギャー」として実績をあげ、財をなした。それをコザの遊技場に投資して成功し、のちに那覇派との抗争で逮捕されたさいには、2万ドルの保釈金を支払って釈放されている。1000ドルあれば楽に家が建ったという時代の2万ドルは巨額で、彼がその保釈金を払ったために沖縄ある銀行の金庫が空になったと伝えられる。そういう並み外れた財力がターリーとしての地位を不動のものにしたという面はあったかもしれない。

金城 「私はよく、スターさんと一緒にコザにいるターリーを訪ねたんです。スターさんは他の人は連れていかない。いつも私でした。

いつだったか、ターリーが何かでヘソを曲げているときに、ご機嫌うかがいに訪ねていったことがあるんです。

ターリーの愛人がやってる焼肉屋があって、そこへ行くと糸村直樹や岸本建和(コザ派の幹部、『コザ10人シンカ』のうちの2人)なんかが先に来て待ってるんです。ターリーの家は目と鼻の先でしたから、岸本が『ターリー、スターが来てるよ!』と大声で叫ぶと、すぐにターリーが姿をあらわします。

そのときもそうでしたが、ターリーは普段はたいてい髭ぼうぼうで、きたない格好をしてるんですよ。だいたい恰好なんてかまわない人なんです。髭の濃い人でしたが、それを10日も20日も伸ばしっぱなしで、服装なんかもまるでお構いなしです。

スターさんはそういうターリーを『アワーさん』と呼んでたんです。『アワーさん』というのは沖縄の言葉で『横着者』というぐらいの意味ですよ。ほんとうは面と向かって使うような意味じゃないんですが、スターさんは親しみを込めてターリーをそう呼んでたんです。そんなふうに呼ぶのはスターさんだけで、あとはみんな『ターリー』でした。

スターさんは遠慮深い人でしたから、ターリーにあいさつだけして帰ろうとすると、ターリーは『スター、今日は帰ってはいかんよ』と引き留めるんです。それでも帰ろうとすると、岸本につかまえさせておいて、自宅に走って戻る。急いでシャワーを浴びて髭を剃って、今度はこざっぱりとした格好になって戻ってきて、『さあスター、今日はゆっくり飲もうよ』と、喜び勇んで腰を下ろす。スターさんとターリーというのはそういう仲だったんです。決して沖縄を2つに割って対立するような仲じゃなかった。」

彼は昭和39年には隠退してしまうが、第一線を退いてもなお、ターリーとして沖縄ヤクザ界に隠然たる影響力を及ぼし続けるのである。彼は泡瀬派と山原派の抗争で二度、泡瀬派の襲撃を受けている。いずれも喜舎場が引退後のことだったが、それは実質的には山原派のトップが喜舎場だったということを示している。(続く)

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