金城正雄氏が語る「首領」たち / 沖縄ヤクザの生き字引が「英雄」を語る – 又吉世喜(2)

(続き)金城「スターさんは沖縄のヤクザの世界を守った人です。そして、そのために命を落としたんですよ。あの人を亡くしたことは大きな痛手でしたが、戦中から戦後にかけての沖縄はそういう血をたくさん流さなければならなかったんです。そういう犠牲なくして、沖縄人は生きてはいけなかったんです。命がけで守らなければ沖縄社会はヤマトンチュー(本土人)のものになってしまった。スターさんの死はそういう犠牲の一つなんです。

それはヤクザの世界に限りません。現代にも限りません。琉球王朝の昔から、沖縄人はそういう血をかぎりなく流し続けなければならなかったんです。それが南西諸島の小さな島国の宿命だったということです。

平和になった今、沖縄人はスターの死をもう一度、見つめ直さなければならないと思います。そうでなければ沖縄人の魂というものが失われてしまいます。たとえ日本の県の一つになっても、沖縄人は沖縄人です。私たちがそれを忘れたら、沖縄人の魂は永遠にこの世から消え去るんです。

スターさんは我慢の人でした。

あの人はいつも我慢に我慢を重ねて、沖縄全体のことを考えて動いてたんです。

スターさんは二度も喜史さん(沖縄連合旭流会理事長・山原派首領の新城喜史)に殺されかけてるんですよ。那覇派とコザ派はそれが元でいくさにもなった。普通なら手を結ぶなんて考えられないでしょうが、スターさんは我慢してそれをしたんです。そしてそのために殺されなければならなかったんです。

スターさんと喜史さんは宿命のライバルだったとしか言いようがありません。ターリーは、長男の喜史さんももちろんかわいがってましたが、スターさんも同じくらいかわいがったんです。

新城に比べるとスターさんは地味な人です。社交性はゼロで、人付き合いなんかしてるよりは空手の修行に明け暮れてる方が似合ってる人間です。根っからの武道家で、沖縄の昔からの武士の魂が宿っているような、どっしりした人間なんです。だから、世渡りとか商売とか、そういう現実的なことにはあまり興味がなかった。本質が沖縄武士なんです。

対照的な良さを持った2人でしたから、ターリーが両方立てた気持ちはわかります。しかし、両雄並び立たずと昔から言うように、両立した者同士には争いが生れるのが世の常です。どちらが悪かったかなんていまさら考えても、なんの意味もありません。あれはもう宿命のようなものだったと思うのです。

喜史さんは激しい人ですから、スターさんを二度襲って、二度とも瀕死の重傷を負わせました。一度目は西原飛行場跡に連れ出して、7人がかりで殴る蹴るの暴行を加えたんです。死ぬほどの傷でしたが、スターさんはよみがえりました。二度目は、本土のヤクザをヒットマンに雇って、背中から撃たせました。そのときも重体でしたがスターさんはよみがえって、そのあたりから『不死身の男』と呼ばれたんです。

そういうことがあって、那覇派とコザ派は2年ほどいくさをしていました。

受けて立ったんだから、スターさんにももちろん那覇派の首領としての意地はあったんですよ。ただ、スターさんにとっての喧嘩というのは、あくまでも1対1で、素手でやるものでしたからね。若いのが勝手にいろいろやってるだけで、自分の方から何か企んで仕掛けるということはしなかったんです。

いくさの間はターリーとも敵同士の関係になってしまいましたが、そうなってしまってからも2人はよく電話で話をしてましたよ。そのうち口論になったりもしましたが、そういうときでもスターさんはきちんと敬語を使ってましたね。私は脇でそれを聞いていて、いくさの最中に上杉謙信が武田信玄に塩を送ったというのもこんなようなことなんだろうと感心しました。今考えれば、スターさんはそういうところも立派でした。敬語を使って喧嘩をする人なんてそうはいないですよ。

喜史さんとスターさんは一応、和解はしたんです。いや、正確に言えば、沖縄県警にむりやり手を握らさせられたんですよ。スターさんにしてみれば割り切れない思いが残ったはずですが、スターさんはそれを全部呑み込んで、すべてを水に流しました。我慢したんだろうと思います。

それが終わるとまもなく那覇派から普天間派が分かれ、コザ派から泡瀬派が分かれました。ターリーが身を退いて、喜史さんがその跡を取ってコザ派が山原派になって、また次のいくさが始まりました。しかし、それからあとはもう、那覇派と山原派とはやり合わなかったんです。

やり合わなかっただけで、喜史さんとスターさんが手を組んで那覇派・山原派連合を作ったなんてことはないんですよ。たまたま同じ敵といくさをしてたというだけなんです。

何年か泡瀬派・普天間派を相手にいくさをして、終わったのが昭和42年のころです。その2年後に、沖縄返還についての佐藤首相=ニクソン大統領共同声明が出たんです。

それからは沖縄人は、何事も2年半後の本土返還ということを視野にいれて考えなければならなくなりました。そして、どの分野でも真っ先に浮んできたのが、返還と同時になだれ込んでくるはずの本土勢力にどう対応するかという問題でした。

ヤクザの世界でもそれは同じでした。そして、答えはハッキリしてました。本土ヤクザは一歩たりとも沖縄に入れてはならない。本土ヤクザが沖縄に事務所を構えることだけは絶対に阻止しなければならない。その点では沖縄ヤクザの思いは一つでした。

私たち沖縄人は、沖縄の遊技場やバーやクラブが、本土のヤクザに用心棒代を持っていかれたりするのを見たくはなかったんです。それでは沖縄人の社会ではなくなってしまう。そんなくやしいことになってはならない。その一心でした。

共同声明が出た半年後の昭和45年の春には、本土のヤクザ組織に属している沖縄人が那覇市内に『国琉会』という組織を作るという事件が起きました。それは、警察の介入もあって、勘違いということで撤収されましたが、そのあたりから沖縄ヤクザの危機感が一気にあおられていたのです。

『マサー(又吉は金城正雄氏をこう呼んだ)、これはもう沖縄人同士がいがみ合ってる場合じゃないぞ。俺と喜史が手を結ばなかったら、沖縄は本土ヤクザのものになってしまうだろう。本当の敵はほかにいるんだ』

スターさんは私にそう言ったんです。

それからは私もあちこち走り回りましたよ。

いろいろありましたが、その年の暮にはついに那覇派と山原派が一つになって、沖縄連合旭琉会が発足したんです。

スターさんの胸の中にはいろんな思いがあったろうと思います。喜史さんもそれは同じだったかもしれません。しかしスターさんも喜史さんも同じ沖縄人です。ほかは全部ちがっても沖縄を守ろうという気持ちだけはピッタリ一致して、2人は手を結びました。それが沖縄連合旭琉会でした。

そういういきさつでしたから、役員を選ぶにしても完全に均衡人事でした。山原派の仲本善忠が会長になったから、副会長には那覇派から具志向盛と大城善一の2人が出たんです。あとは両派から理事を10人ずつ出しました。

私はまだ30を過ぎたばかりの若輩者でしたが、那覇派の理事の1人になったうえに事務局長をやらされることになりました。

『若輩者がそんな大役はできない。先輩がいくらでもいるでしょう』

と断りましたが、初代が、『いや、これは正雄にしかできない』と言うので引き受けざるを得なかったんです。

私は理事になってもらった初代の旭琉会のバッジをいまでも大切に持っています。それにはスターさんが沖縄を思った気持ちが詰まっているような気がして、ときどき取り出しては胸に付けてみたくなるんです(続く)。