(続き)今回は、長らくお待たせいたしましたが、ブログ主なりに解明した金城正雄さんの “実像” について言及します。
前回の記事で金城正雄さんの履歴について紹介しました。その中で “三代目旭琉会金星一家・金城正雄総長は、ごく初期のころから那覇派の首領・又吉世喜の舎弟分として那覇派の実務面を取り仕切ってきた(以下略)” と記載されてますが、那覇派の実務面とは何かを窺える記事を見つけましたので全文を紹介します。沖縄ヤクザネタ好きの読者のみなさん、是非ご参照ください。
暴力団幹部を指名手配
那覇 – なわ張り料おどし取る
那覇市内の遊技場から、暴力団がなわ張り料の名目で現金をおどしとっていた事件が那覇署の内偵でこのほどわかり、同署は29日午後、主犯で暴力団那覇派中堅幹部を恐かつで全琉に指名手配した。同署では、最近那覇市内の遊技場から暴力団が多額のなわ張り料を徴収して、組織暴力の資金にしているのではないかとみて、この事件を徹底的に追及し、暴力団の資金源を断つ方針である。
全琉に指名手配されたものは、住所不定、無職、暴力団那覇派中堅幹部、門口(ジョーグチ)こと金城政雄(27)。金城はさる8月ごろから那覇市牧志町の遊技場経営者に「カスリ(なわ張り料)を出せ」とおどし、経営者が断ると、付近に巣くうチンピラ達を引きつれて遊技場の経営を妨害するなど再三いやがらせしたので、たまりかねた経営者が金城が請求した200㌦の一部34㌦を渡したという。経営者は後難をおそれてこの事件を警察に届け出なかった。
暴力団による那覇市内の遊技場からのなわ張り料の徴収は、63年以来ほとんどなくなっていたがことしはじめごろから那覇市内の波上、牧志、栄町、神原、寄宮あたりで暴力団が業者をおどして徴収しているとの情報があり、那覇署で内偵していた。
金城は以前から那覇市内の風俗業者や遊技場経営者をおどしてナワ張り料の徴収を専門的に行っている暴力団員で、
同署では後難をおそれて届け出ない業者も相当いるものとみて、業者に協力を呼びかけている。那覇市内の風俗業者、遊技場経営者は警察の強力な指導取り締まりで、暴力団によるナワ張り料を強硬に断るむきがふえたが、まだ一部には再三にわたるおどしや、いやがらせにたまりかねて1月50㌦ぐらいの現金を支払うものもいるという。
引用:昭和40年(1965)年9月30日付琉球新報朝刊07面
同日夕刊3面には顔写真付きの記事が掲載されていますので、併せて紹介します。
手配中の金城逮捕 – 那覇派暴力団
那覇市内の遊技場からナワ張り料の名目で現金をおどしたり、29日那覇署から恐カツで全琉に指名手配されていた暴力団那覇派の中堅幹部、門口(ジョーグチ)こと金城政雄(27)=那覇市国場764=は、30日午前8時20分、字国場の自宅で寝ているところを那覇署の暴力団専従刑事に逮捕された。
金城は、さる8月はじめごろから、那覇市牧志町の遊技場経営主(29)を「ナワ張り料200㌦を出せ」とおどし、断らわれると、チンピラを引きつれて遊技場にいやがらせしたので、たまりかねた遊技場経営主は200㌦の一部として34㌦をさる8月26日午後11時ごろ、金城に払った。那覇署は「さいきん暴力団が那覇市の遊技場からカスリ(ナワ張り料)をおどしとっている」との情報をつかみ、内偵していた。
同署では、那覇市内の遊技場や風俗営業者は毎月50㌦内外の現金をナワ張り料の名目で暴力団に支払っているといっており、金城の逮捕で徹底的にこの面を追及、暴力団の資金源を断つという。
引用:昭和40年(1965)年9月30日付琉球新報夕刊03面
参考までに、当時の新聞記事は名前の “誤植” が多く、特に沖縄ヤクザ関連の史料ではそれが目立ちます。だがしかし、年齢や那覇派中堅幹部との記述、そして顔写真から、金城政雄=金城正雄であることは疑いの余地がありません。ここまでくればお分かりかと思われますが、金城さんは那覇派のウラの仕事を一手に引き受けてきた人物なのです。
つまり、又吉世喜(あるいは又吉一族)の闇の部分を担当したわけであり、おそらく
又吉世喜が存命中は(とてもじゃないが)表に出せない
レベルの極めてヤバい人物であった可能性が高いのです。その傍証が前回の記事で紹介した又吉世喜のお悔やみ広告です。
ちなみに彼は、昭和51年(1976)12月以降の二代目旭琉会から事務局長という肩書で組織の前面に出て来るようになります。それはおそらく、又吉世喜が作り上げた旭琉会を守るために、弟分である多和田真山会長をバックアップすべく登場したと考えられます。
*参考までに、多和田真山会長のウラの仕事を担当してきた人物は、おそらく仲程光男さん(丸長一家総長)、富永清さんの場合は上江洲丈二さん(南州一家総長)でしょうか。
参考までに金城さんの証言の一部を紹介します。
私たちはなんとなく本土ヤクザが外から攻め込んでくるようなイメージを持ってましたが、そうじゃなかった。かつての私のいちばん身近にいた沖縄人が、そういう災いをかつぎこんで目の前にドンと置いたんです。
そこからまたいくさが始まるんですが、それは旭琉会にとってはなんとしても負けられないいくさでした。
上原組と琉真会は、たとえて言えば堤に開けられたアリの穴です。放っておけばそれはどんどん拡がって堤が崩れるに決まっています。だから、なにがなんでもその二つの穴は完全に塞がなければならない。どんな形ででも、それを沖縄に残してはいけない。そうなければあの世に行ってスターさんに顔を合わせる顔がない。そのときはもう二代目になってましたが、旭琉会はみんなそういう気持ちで戦ったと思います。だからあれだけ激しいいくさにもなったんです。
戦いが終わって、目的は達せられました。それで今日の沖縄ヤクザがあるんです。(以下略)
引用:洋泉社MOOK『沖縄ヤクザ50年戦争』(2004年7月7日発行)132~133㌻
金城正雄さんは、アメリカ世の那覇派の時代から二代目にかけて表とウラの部分で沖縄ヤクザの一本化と旭琉会の発展に尽力したアンダーグラウンド界の大人物で間違いありません。そしてもう一つ確信できたことがあります。それは
金城さんは富永清さんのことを終生、許せない存在だと思っていた。
ことです。ただしこの点はあくまでブログ主だけの確信ということで、今回の記事を終えます。
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