今回は、二代目旭琉会で長らく事務総長を務めてきた金城正雄さんについて言及します。金城正雄さんて誰?と思われる読者もいらっしゃるかと思われますが、彼は那覇派時代は中堅幹部、そして又吉世喜の弟分として活躍し、昭和45年(1970)以降の旭琉会では長らく事務総長を務めるなど、組織にとって重要な人物であり続けました。
それよりも、彼は “又吉世喜” のイメージを作った人物として知られています。例えば、洋泉社MOOK『沖縄ヤクザ50年戦争』では沖縄ヤクザの語り部として登場してますが、彼の又吉に言及した部分が極めて多いのが目に尽きます。
ためしに、彼のプロフィール部分を書き写しましたので、読者の皆さん、是非ご参照ください。
中国が「三国志」なら、コザ派(山原派)那覇派、普天間派、泡瀬派の四派が覇を競ってせめぎ合った沖縄ヤクザは、さながら「四国志」の世界だった。
そこで主役を張ったのはどういう男だちだったのか?
ここでは、その中の六人に焦点をしぼり、三代目旭琉会・金星一家金城正雄総長のコメントをもとに、その人物像を描き出してみた。
三代目旭琉会金星一家・金城正雄総長は、ごく初期のころから那覇派の首領・又吉世喜の舎弟分として那覇派の実務面を取り仕切ってきた。その実績が買われ、彼は沖縄連合旭琉会の結成時から二代目旭琉会の時代まで、事務総長の要職を務めた。三代目になって役職は後進に譲ったが、三代目旭琉会にあってはいわば長老格にあたる人物である。
金城総長は若い時代、又吉世喜と起居を共にしていたこともあって、連合以前の那覇派はもとより、沖縄ヤクザ全般についての生き字引的存在である。(以下略)
引用:洋泉社MOOK『沖縄ヤクザ50年戦争』(2004年7月7日発行)120㌻
もうひとつ、参考までに(You Tube からの拾い動画ですが)、平成2年(1990)ごろの金城正雄さんの様子をご覧ください(05:58ごろから登場します)。
この動画で注目すべきは、彼が富永清さん(当時は沖縄旭琉会会長)のことを「富永くん」と呼んでいる点です。この事実だけでも、沖縄ヤクザ界における彼の立ち位置が窺えるのですが、実は彼には矛盾した情報もあるのです。
それは、当ブログでは何度か引用していますが、昭和50年(1975)11月17付琉球新報3面に掲載された又吉世喜のお悔やみ広告です。勘のいい読者であれば気が付いたはずです。
そう、
このお悔やみ広告の中に彼の名前がないのです。
この事実は、冠婚葬祭などの義理事を極めて重視するヤクザの世界では極めて異例であり、本来であれば彼の名前は少なくとも富永清、あるいは彼の弟分的存在だった多和田真山よりも上に明記されるべきなのです。
では、なぜ彼の名前がないのか。実はこの案件は長年の謎でしたが、数日前にとある新聞記事に目を通したときに、疑問が氷解しました。次回はこの点について言及します(続く)
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