選挙における候補者選びについて真面目に考えて見たところ ~ その2

前回記事において、選挙における候補者選びの際に、「民主主義=反ファシズムである」と考えている(あるいは支持者、支持団体がそう思っている)候補者には投票すべきではない旨を説明しました。ちなみにこのセンスは思いのほか現代社会に根強く残っていて、近代デモクラシーの精神を阻害する最大要因になっていることは否定できません。

まことに残念なことですが、これも現代社会が抱える病の一つと言えます。ちなみに「民主主義=反ファシズムである」と考える人たちは、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国のことを(本音では)全体主義国家と認識していません。理由は中国共産党および朝鮮労働党は大日本帝国を清算して国家を建設した建前を堅持しているからです。それゆえ“あこがれている”と言っても過言ではなく、現在の苦境(とくに北朝鮮)は「アメリカが不当にも圧力を加えたからそうなってしまった」と思い込まざるを得ません。そう思わないと一瞬たりとも自我を保つことができない、しかもそのことを公言できない。そういう可愛そうなひとは黙って社会から引退すべきと思いますがいかがでしょうか。

話は少しそれましたが、選挙の候補者選びにおいてブログ主がNGなのは

東西冷戦はソビエトの崩壊で終わった

と思っている(あるいはそう思っている支持団体を抱えている)候補者です。東西冷戦は東アジアでは継続中なのです。実際に中国共産党、朝鮮労働党、ベトナム共産党が崩壊して国家体制が転換しないかぎり冷戦は終結しません。

沖縄県民はいまも昔も「大東亜戦争は国家総力戦であった」という観念が希薄です。つまり20世紀の戦争の一大特徴である国家総力戦について真面目に考えることもなく、特に終戦後はアメリカが日本防衛の肩代わりをすることで、「戦争とは軍人さんが戦うもので、非戦闘員である一般国民は(軍隊の)バックアップに専念すればいい」という考え方から抜けきることができません。言い換えれば古今東西、戦争は軍隊だけが行うものだと思い込んでいるのです。

国家総力戦は“国が軍事力を含むあらゆる分野を総増員して行う戦争”のことで、あらゆる分野とは経済力や、文化・思想にいたる国民生活にかかわる全ての部分を意味します。それゆえ、これまでは非戦闘員扱いであった民間人もいやおう無く戦争に巻き込まれることになります。そして国家総力戦の敗北は即国家の崩壊を意味します。

第一次世界大戦、第二次世界大戦がまさに国家総力戦であり、そして冷戦も国家総力戦の一種です。米ソで直接軍事行使はしなかったのですが、国民生活に関連するあらゆる分野を動員して相手国の崩壊を画策し、その結果ソビエト連邦は崩壊してしまいます。国家総力戦の一番恐ろしいところは、敗北=国家の崩壊につながることで、それゆえ戦争を仕かけられたら何が何でも勝利しなければならないのです。

我が沖縄は、昭和24年(1949年)の中国革命、および昭和25年(1950年)の朝鮮戦争の勃発により、否応無く冷戦に参加しているのです。しかも前線で、言い換えると戦争に巻き込まれている状態なのです。だからブログ主は「基地があることで戦争に巻き込まれてしまう」という主張は断乎認めることができず、冷戦の最前線でアメリカ軍の圧倒的軍事力で防戦している現状を理解できない人たちが社会において一定の影響力を持っていることを危惧しているのです。

冷戦は単なるイデオロギー対立ではありません。そして東アジアでは冷戦は継続中で、我が沖縄は前線に位置しています。この現実を無視して、「東西冷戦は終わった。21世紀の沖縄はアジアの連帯を……」と唱える人たちは、現在テレビをお騒がせしている日大アメフト部並の危機管理能力の持ち主で間違いありません。そしてそのようなタイプの政治家に投票はおろか(禍に巻き込まれるのを避けるために)半径五万メートル以内には決して近づいて欲しくないと思うブログ主であります(つづく)。


【参考】 国家総力戦について解りやすく説明しているブログを紹介します。是非ご参照ください。

「国家総力戦」とは何か。戦争の勝敗が軍事力だけでは無くなる