以前に当ブログにて “突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – 戦果編” のタイトルで沖縄戦後の “戦果アギャー” について言及しましたが、今回はその続編です。戦後沖縄におけるアシバーを語る上で戦果アギャーは避けて通れないため、試しに昭和20~21年ごろのうるま新報を調べたところ、予想のはるか上を行くエグい記事を見つけました。
石原昌家さんの名著『大密貿易の時代―占領初期沖縄の民衆生活』の中で戦果アギャーについての言及がありますが、その中で引用されている昭和21(1946)年10月4日付うるま新報1面の記事がそれで、試しに原文を書き写しました。ぜひご参照ください(読者の便宜を図る上で必要に応じて句読点を追加しています)。
無自覺な徒の窃盗 / 重大結果を招來!
知事より嚴重に警告
“比島の盗癖” と云へば世界的に有名だが、かつて “守禮の邦” と云はれたわが沖繩も今や “窃盗の邦” と呼ばれても文句のない恥晒しの實に無謀極る集團窃盗の事實が発覺した。九月二十三日午前十一時頃、宜野灣村普天間五五號寄宿仲村渠春道(四一)は荷車を挽き大山方面より歸宅せんとする途中エムピーの誰何に逢ったが知らぬ顏で行き過ぎようとする途端發砲されてひん死の重傷を受けたが、同人の荷車を取調べた處荷物の下から機關銃二挺が發見され、これが端緒となりはしたなくもこの樣な米軍需品集積所の莫大な窃盗被害が白日のもとに暴露された。卽ち九月二五日志喜屋〔孝信〕知事は仲村〔兼信〕民警察部長と共に軍政本部保安部長スキウズ氏に呼ばれて普天間四方の米軍需品集積所、並びに島尻與座岳附近數ケ所の米軍需品集積所の甚大なる窃盗被害に就て手嚴しい叱責を受けたが、引續き普天間四方の集積所に同行、現場の被害状況を檢分したが、部分品を抜取られて山積みする武器類の殘がいを目前につきつけられ知事も民警察部長も穴があれば這入り度い思ひであつたと後で●●した通り、見渡すばかりの集積所が實に慘憺たる有樣だ。集積所の軍需品と云ふ軍需品の総てがその梱包は破壞され、防水のシートは剝取られ、破壞された箱から眞新しい機銃や銃弾ベットや手榴弾等が持出され一泥の中に散亂してあり、ずらりと並んでゐる戰車の部分品が取去られ一台も殘すところ〔な〕く使用不能にしてあると云ひ、驚くばかりの被害状況だ。大盗の鼠襦袢や白襟もかくまで狼藉は出來まいと思はるる被害であり、島尻與座岳附近數ケ所の集積所も同樣で、砲彈類の眞管は抜取る、火藥を掠めてある、絹袋を窃取する爲に手當り次第に火藥は打ちまくと云ふ鹽梅で、其處ここに機雷等も散亂し危險この上もないがよくこんな事が仕了(しお)はせたものだと米軍側もあきれている。使用不能にされた此等軍需品の損害高は沖繩復興に要する費用どころではないとのはなしだ。民警察部では直に集積所近傍の宜野灣村野嵩、普天間、北中城村安谷屋部落の家宅捜索を行つたところ、殆ど各家に件の軍需品の部分品が家庭の備品の如く發見された仕末で、志喜屋知事並びに仲村民警察部長は右の事件に就き極力一般の自戒を促し夫々次の如く語つた(下略)。
引用元:1946年10月4日付うるま新報1面
ちなみにブログ主が確認した限りですが、”戦果” に関して新聞の1面トップを飾ったのはこの事件だけです。ただしマスコミ沙汰にならなかった事件は数知れずあったはずで、上記の案件は被害規模があまりにも甚大なため、大々的に報道されたように思われます。
この事件に関して、石原昌家さんは「米軍に対する民衆の抵抗」の観点から言及していますし、沖縄の歴史において戦果アギャーはアメリカへの抵抗の視点で記述されています。たしかにその通りなのですが、実はそれだけではなく、昭和23年あたりから沖縄住民同士の盗難事件も “戦果” と呼ばれるようになります。それ故に、窃盗の邦と呼ばれるほど治安が極度に悪化した事例は、民衆の抵抗の側面よりも、これまで沖縄社会を支えていた連帯が崩壊し、それに伴って社会秩序が解体された視点から解釈すべきです。
そこで “これまで沖縄社会を支えていた連帯” とは何かを定義する必要がありますが、大雑把に言えば、戦時中の沖縄社会は上は大政翼賛会で、地域社会は村落共同体でまとまっていたのです。琉球・沖縄の歴史において “沖縄県人がひとつにまとまった” 事例は昭和15年から20年の5年間の1回だけで、この理想的な連帯感が大東亜戦争の敗戦で完全に崩壊してしまうのです。
そしてこれが沖縄戦における本当の悲劇なのです。
連帯の崩壊は必然的に無秩序状態を生み出します。ソ連崩壊後のロシアが好例ですが、ただし人間社会はいつまでも無秩序の状態にには耐えられないため、これまた必然的に秩序の再構築の動きが起こりますが、ただしその過程で琉球・沖縄の歴史上初の “アシバー階級” が誕生してしまいます。そのため戦後の暴力団は “敗戦の副産物” と言っても過言ではありません。
ここからは余談ですが、終戦後の沖縄社会は裏経済が住民の生活を支えていました。そのことは沖縄民警察部長を務めた仲村兼信さんの回想や当時の記事をチェックすれば理解できますが、ただしごく限られた一部の階層は戦果アギャーに頼ることなく生活を営むことができました。沖縄民政府の志喜屋知事をはじめ政府の高官やうるま新報などマスコミ関係者たちのことですが、それは決して道義的に優れていた訳ではなく、米国軍政府が彼らの生計を保証したからです。
つまり志喜屋知事らは戦中は大日本帝国に仕えた忠実さで戦後は米国民政府に仕えたわけですが、ブログ主は彼ら政府高官を責める気持ちはありません。そうなった主因はやはり戦後の無秩序状態の結果なのです。理想的な連帯感が崩壊することは斯くまで恐ろしい事態になることを理解してほしいのです。だから
戦中は翼賛会で大日本帝国に、戦後は沖縄議会の議員およびうるま新報の社長として米国軍政府に忠実に使えた瀬長亀次郎さんを悪く言うことは許されない
とブログ主は確信している次第であります。