逃げることの大切さ

今回はひさびさに沖縄ヤクザネタを提供します。アメリカ世の混沌としたアングラ業界では(当たり前のように)大幹部クラスが数人射殺されていますが、そのなかで(確認できた限りでは)唯一天寿を全うした人物がいます。その名は”善良な市民”こと喜舎場朝信さんです。

彼は従軍経験があると伝えられ、戦後沖縄では戦果アギャーでのし上がった人物ですので一種の豪傑のイメージがあると思われますが、彼の本当の凄さは「いざというときに逃げ切ることができる」点に尽きると確信しています。試しに下記の有名なエピソードをご参照ください。

昭和57年10月11日付琉球新報夕刊1面

話の卵 – 暴力団抗争

今から 15~6 年前、中部の暴力団の元幹部とか黒幕とかいわれていた人が、ズケラン部隊前で他の組織暴力団の若い組員に襲われた。襲った組員は短銃を突きつけた手が震えて引き金を引けず大幹部は難を逃れた。この事件が発端となって暴力団抗争が再燃、コザの繁華街などで襲撃事件が相次いだ。山原、那覇、普天間派と泡瀬派抗争事件であるが、結局、泡瀬派が壊滅状態となり解散した(中略)。

この事件は昭和41年(1966年)4月23日午前1時ごろ、北中城村瑞慶覧で発生した有名な”喜舎場朝信襲撃事件”で、その詳細は下記参照ください。

昭和41年(1966年)4月23日付琉球新報夕刊3面

瑞慶覧で殺人未遂 – 暴力団か、ピストル不発、助かる

【北中城】二十三日午前一時ごろ、北中城村でピストルによる殺人未遂事件が発生した。

同日午前一時ごろコザ市安慶田、喜舎場朝信さん(四七)がコザの自宅から乗用車に乗って普天間に行く途中、北中城村瑞慶覧の米人学校付近の五号線路上で、うしろからきた二人乗りの車に呼びとめられ、助手台に乗っていた一人の男が「喜舎場さんですね」といって確かめてから、いきなりピストルを突きつけ、引き金を引いたが不発に終わった。

喜舎場さんは、大声を上げて米軍部隊内に逃げ込み、男たちの車はコザ方面に走り去ったという。

普天間署では殺人未遂事件として捜査しているが、喜舎場さんが以前、暴力団コザ派と関係していたことから、暴力団の対立にからむ事件だとして捜査している。

この案件はヒットマンの経験不足と計画性のなさ、そして運の良さで喜舎場さんは災難を逃れますが、とっさに「逃げる」ことを選択し、本当に逃げ切ったあたりに彼の本質を垣間見ることができます。そしでブログ主はここに彼の本当の凄さを実感します。

過去に九死に一生を得た人物は、危機に際して「(生き延びるために)逃げ切る」ことを選択すると聞いたことありますが、喜舎場さんが取った行動はまさにそれで、彼はおそらく戦争あるいは戦果アギャー時代に「本当の命の危機」を経験したと思われます。琉球政府に逮捕された時には巨額の保釈金を惜しみなく出して自由の身を確保したり、その後の裁判でも無罪を勝ち取るあたり、生き残りのための彼の執念には驚かざるを得ません。

彼のライバルのひとりであった田場盛孝(たば・せいこう:那覇派⇒普天間派)は全く逆で、襲われたらカーッとなって反撃するタイプです。彼は経済観念があって那覇派顧問弁護士から「(人物的には)申し分がない」と言わしめた程の人物ですが、「いざというときに逃げ切ることができない」ために結果的に早死にしてしまったのです。この件については後日記事で紹介します。

沖縄ヤクザ業界の巨頭である喜舎場朝信の生き様を見ると、ケースバイケースで「逃げ切る」ことの大切さと、そして彼が天寿を全うしたのもある意味当然だなと痛感するブログ主であります。(終わり)