前回の記事において、琉球王国時代の百姓たちの民家について説明しました。では『おきなわ郷土村』にある王国時代への突撃レポートを開始します。
・入り口を入った先に、王国時代の民家の説明看板があります。説明のなかで気になった点は
- ヒンプンがないこと
- 豚舎がないこと
の2点です。『沖縄県巡回日誌』によれば、兼城間切(南風原町兼城あたりか)を訪れた際に「是夜空濛、咫尺を弁せず、暗中模索適露厠に至り、脱糞す、蓄豚あり、咆哮臀を舐めらんとす、頗る驚ろけり。」と記載があり(この時一行は民家に宿泊した)、島尻地方の民家には豚舎があったことを示す内容ですが、おきなわ郷土村の再現民家には本当に豚舎がありませんでした。
ちなみに『沖縄大百科事典』の穴屋の説明は下図参照。
下図の写真は左側が台所で、右側が主屋(母屋)です。
母屋の入り口です。『沖縄大百科事典』に「壁にはチニブ(山原竹を網代のように編んだもの)を二重にし」と記述がありましたが、この写真で確認できます。『沖縄本島巡回日誌』 の記述に「低簷矯屋茅を噴き」とありますが、入り口の大きさは目測160cm以下で、庇(ひさし)の低さを実感しました。当時の田舎百姓の平均身長は160cm以下だったかもしれません。
天井部です。「屋根にはキチ(小丸太)で小屋組みをし、茅あるいは竹茅(篠竹)葺きにした。」との説明通りの造りでした。
主屋(母屋)の写真です。床は竹敷きで、裸足で歩くと痛いです。実際には藁(わら)か筵(むしろ)を敷いていたようです。
台所です。土床部と竹敷きに分かれています。この写真では分からないのですが、実は台所には煙抜きの穴がありません。
カマドです。甘藷(イモ)を蒸かすためのシンメーナベと、ほか2つの鍋があります。地頭代や近年の民家のカマドも見ましたが、実に粗末なつくりで本当にびっくりしました。
この写真は本部の民家(昭和初期)の台所内のカマドです。琉球王国時代の家のカマドより作りは良くなっていますが、構造は同じです。
カマドのそばにある生活用品です。鍋が3つ、水がめが数個、クバ笠と調味料を保存する瓶など、とにかく数が少ないのには驚きです。
最後にもう一度、主屋(母屋)の内部撮影。この民家には炉(土炉、あるいは囲炉裏)がありません。実際にはあったようです。
いかがでしょうか。穴屋形式は13世紀あたりの按司時代から続く民家の形式ですが、18世紀にはいると敷地家屋の制限令(1737年)によって田舎百姓は後述するノロや地頭代の住居とは比較にならないほど粗末な住宅しか建築することができなかったのです。なぜ公儀(王府のこと)が家屋の制限令を施行したのかはよく分かりませんが(木材資源の枯渇の対策か?)、少なくとも18世紀から幕末にかけての琉球国は農民にとって住み良い環境ではなかったことは間違いありません。(続く)
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