論説 – 野球優勝試合

大正6(1917)年9月10日付琉球新報2面上段に”野球優勝試合”と題した論説が掲載されていました。無署名記事ですが、内容を吟味するに太田朝敷先生の論説の可能性が高いです。

論説の流れは大雑把に見ると、大きい視点(沖縄県における急務の問題についての言及)→対応策の提示→対応策を講じることによって生ずる弊害についての言及になっていて、これは太田先生がよく使う手法です。それ故ブログ主は太田先生の論説で間違いないと判断しています。論説全文(原文)と旧漢字訂正分を掲載しますので、読者のみなさん是非ご参照ください。

野球優勝試合

【旧漢字訂正分】本県人の体格は、比較的劣弱なりと称せらる。健全なる精神は、健全なる身体に宿ると。蓋し此の言をして真ならしめば、本県人は精神も亦比較的不健全なりと云ひつ可し。果たして然らば本県人は、終に生存競争場裡に於ける劣敗者たるを免れず。県下の前途真に寒心せざらんとするも能はざるなり。是れ即ち吾人が数年来口を酸(きは)めて体育奨励の声を大にしつつある所以にして、実に体育の養成は県民刻下の最大急務たるを失はざるなり。然り而して本問題は、今や漸く議論の時代を過ぎて実行の季に入る。而かも県下の実情に就いて見るに其の実行を期せられつつあるもの必ずしも多しとせず。茲に於いてか吾人は昨年来県下野球大会を主催して、以て県下好球家の発憤を促すに努めたり。然るに幸にも県下の好球家翕然として集ひ、第一回よりも第二回と回を重ぬる毎に盛大ならんとする傾向あり。之れ素より県下好球家の熱心の賜にも依る可しと雖も、又以て体育奨励の機運漸次昂まりつつあるを示す唯一の証左たらずんば非ず。殊に最も慶ばしく思はるるは、一般人士の野球に対する趣味の向上之れなり。従来運動遊戯は殆んど学生生徒の専売特許なるかの如く解せられ、其の甚しきは青少年輩の悪戯とさへ同一視するものなからざりしとせず。而して斯くの如き観念に支配さるるの結果は、やがて学生生徒の気風にも多大なる悪影響を及ぼし、幾日しか柔弱の気風を馴致するに至りしなり。之れ即ち吾人が昨年来大いに打破すべしとなせし所にして、漸次その効果を挙げつつあるいは大いに慶ぶ可し。斯くて本社は愈々所期の目的を貫徹す可く、本年も又各中等学校並に有志諸君の援助の下に県下野球大会を開催することとなれり。而して昨日より引続き本日を以て最後の優勝試合を行はんとす。惟(おも)ふに優勝旗の争奪は、素より一種の方便に過ぎず。而かも野球界に於ける名誉を表彰するものたるは言を俟たずと雖も、野球大会の目的は畢竟体育の奨励に他ならず。故に各選手諸君も本末を顛倒するが如きことは勿論なかる可きも、動もすれば此の方便物を方便視せざるの結果相互に嫉視反目するに至ることあり。尤も競技者相互は〔嫉妬〕反目せざるまでも苟も神聖なる可き審判上に就いては、往々にして彼れ是れ云々するもの之れあるを見る。斯くの如きは結局本末を顛倒するに依つて生ずる一種の弊害にして、実に紳士的態度を欠ける最も忌む可き行為なりと云ふ可きなり。要するに体育奨励と云ふ本来の目的を逸することなく各選手諸君が競技に臨むことに依つて、始めて本会の目的も遂行を期することを得るが故に此点に就ては特に注意あらんことを望む。

【原文】本縣人の体格は、比較的劣弱なりと稱せらる。健全なる精神は、健全なる身体に宿ると。蓋し此の言をして眞ならしめば、本縣人は精神も亦比較的不健全なりと云ひつ可し。果たして然らば本縣人は、終に生存競争塲裡に於ける劣敗者たるを免れず。縣下の前途眞に寒心せさらんとするも能はさるなり。是れ即ち吾人が數年來口を酸(きは)めて体育將勵の聲を大にしつゝある所以にして、實に体育の養成は縣民刻下の最大急務たるを失はさるなり。然り而して本問題は、今や漸く議論の時代を過ぎて實行の季に入る。而かも縣下の實情に就いて見るに其の實行を期せられつゝあるもの必ずしも多しとせず。茲に於てか吾人は昨年來縣下野球大會を主催して、以て縣下好球家の發憤を促すに努めたり。然るに幸にも縣下の好球家翕然として集ひ、第一回よりも第二回と回を重ぬる毎に盛大ならんとする傾向あり。之れ素より縣下好球家の熱心の賜にも依る可しと雖も、又以て体育將勵の機運漸次昂りつゝあるを示す唯一の証左たらすんば非ず。殊に最も慶ばしく思はるゝは、一般人士の野球に對する趣味の向上之れなり。從來運動遊戲は殆んど學生々徒の專賣特許なるかの如く解せられ、其の甚しきは靑少年輩の悪戲とさへ同一視するものなからさりしとせず。而して斯くの如き觀念に支配さるゝの結果は、軈(や)がて學生々徒の氣風にも多大なる悪影響を及ぼし、幾日しか柔弱の氣風を馴致するに至りしなり。之れ即ち吾人が昨年來大いに打破すべしとなせし處にして、漸次その効果を擧げつゝあるは大いに慶ぶ可し。斯くて本社は愈々所期の目的を貫徹す可く、本年も亦各中學學校並に有志諸君の援助の下に縣下野球大會を開催することゝなれり。而して昨日より引續き本日を以て最後の優勝試合を行はんとす。惟ふに優勝旗の爭奪は、素より一種の方便に過ぎず。而しも野球界に於ける名譽を表彰するものたるは言を俟たずと雖も、野球大會の目的は畢竟体育の將勵に他ならず。故に各選手諸君も本末を顚倒するが如きことは勿論なかる可きも、動(やや)もすれば此の方便物を方便視せさるの結果相互に嫉視反目するに至ることあり。尤も競技者相互は〔嫉妬〕反目せさるまでも苟も神聖なる可き審判上に就いては、往々にして彼れ是れ云々するもの之れあるを見る。斯くの如きは結局本末を顚倒するに依つて生する一種の弊害にして、實に紳士的態度を缺ける最も忌む可き行爲なりと云ふ可きなり。要するに体育將勵と云ふ本來の目的を逸することなく各選手諸君が競技に臨むことに依つて、始めて本會の目的も遂行を期することを得るか故に此点に就ては特に注意あらんことを望む。(大正6年9月10日付琉球新報2面)

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