託孤寄命章

以前、ブログ主は「選挙における候補者選びについて真面目に考えて見たところ」というお題の調子に乗った記事を配信しました。いま読み直すと表現がどぎつい箇所が多々ありますが、考え方そのものは今もかわっていません。

だがしかし、今回はちょっと趣向を変えて「こういう候補者選びの方法もある」ということについて紹介します。まずは『論語』の一章をご参照ください。

泰伯第八 – 六

會子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也

會子の曰く、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。君子人か、君子人なり。

引用:金谷治訳注『論語』(岩波文庫)155㌻

いわゆる託孤寄命章(たくこきめいのしょう)と呼ばれる有名な一章ですが、ブログ主がチェックした限りでは山本七平氏の解説が一番すぐれていましたので、試しにその部分を書き写しました。

死にぎわに自分の幼児を託せる人こそ、最も信頼できる人

前記のように「温・良・恭・倹・譲」の孔子は、すべての人から信頼された。信頼されたがゆえに人びとは彼を迎え、その意見を聞いた。これは、いずれの社会であれ、どのような体制であれ、信用がなければ人間はその社会において、何事もなしえないことを示している。

(中略)そして、信用とは全人格的なものである。

「會子言う、孤児を託すことのできる者、(百里四方ぐらいの)一国の運命をまかせうる人、危急存亡のときに心を動かさず節を失わない人、そういう人が君子人であろうか、君子人である」

(中略)「託孤寄命章(たくこきめいのしょう)」と呼ばれる有名な一章である。確かに、幼い子をだれかに託して世を去っていかねばならぬ、というようなとき、これに託することができるのは最も信頼できる人であろう、という指摘は、主義にも体制にも宗教宗派にも関係ない「事実」である。

ということは、自分はそのときだれを選ぶであろう、危急存亡のときも心を動かさない人がいたら、それは確かに君子人である。『論語』を読むと孔子はまさにそういう人、孔子ならば孤児を託しうるという点で異論のある人はいないであろう。

「仁者」とはまさにそういった人なのだが、このことは人を見る場合の実に貴重なヒントで、「この人は、自分が一人子を置いてこの世を去っていくとき、その子を託せる人であろうか」 – 常にこれを念頭に置けば、いずれの社会であれ人に裏切られることはない。そして、このような「信」があってはじめて、上役は彼の苦言に耳を傾け、部下は一心に働く。

つまり「信」がなければ、人は動かないのである。

引用:山本七平著『論語の読み方』(祥伝社)219~220㌻

いかがでしょうか。政治家に限らず上記引用の人物であれば山本氏の指摘どおり「いずれの社会であれ人に裏切られることはない」のであって、「選挙公約」はもちろん重要ですが上記の視点で候補者を選別するのもいいかと思います。屋良朝苗さんや西銘順治さんあたりはまさに「託せるタイプ」で、彼らが県知事を長年務めたことは我が沖縄にとって非常な幸運だったと断言できます。

残念ながら「巧言令色鮮なし仁」は世の常ですが、「幼い子をだれかに託して世を去っていかねばならぬ、というようなとき、これに託することができるのは最も信頼できる人か?」を念頭に言動をチェックすると、「この人は信頼できるか否か」はうすうす察知できるものです。そして信頼できないと判断した場合はできるだけ遠ざけるのが己の身を守る最良の手段になります。

ちなみにブログ主は、

タックルサーで有名だった人には一回も投票しなかった

ことをひそかに誇りに思っている次第であります。(終わり)