表現の自由

今月1日に開催されたあいちトリエンナーレの一部企画展「表現の不自由・その後」が中止になった問題で、早速ですが沖縄タイムスが社説でこの件に言及していました([愛知芸術祭 企画展中止]脅迫こそ批判すべきだ)。

「暴力的な言葉を投げつけ、企画展を中止に追い込むのは卑劣極まりない。とうてい許されるものではない。」とありますが、たしかにおっしゃる通りです。だがしかし表現の自由は「公序良俗に反しない限り」という暗黙の制限があり、今回はそれに触れると判断されて炎上騒ぎになってしまったのです。まぁ、主催者の見通しが甘いと批判されても返す言葉もない醜態と言っても過言ではありません。

元来、表現は不自由なものなのです。現代社会は公権力が民間の叡智を信用して可能な限りの自由を許容していますが、民間ではほぼ何でもありの「言論の制限」がまかり通っているのが実情です。そのなかで(自称)社会の木鐸たる我が沖縄のマスコミがどのように言論の自由を行使してきたが、ほんの一例を紹介しますのでご参照ください。

まずは平成29(2017)年7月2日の琉球新報のお悔やみ欄の記事です。

ちなみにこの人物に関しては、佐野眞一さんの著作を引用しますのでご参照ください。

(中略)一方、三代目旭琉会会長の翁長良宏は1934(昭和9)年、那覇市の裕福な家庭に生まれた。だが戦争によって両親を失い、たったひとりの妹とも生き別れとなり、10歳にして天涯孤独の身となった。

戦後は難民収容所に強制的に収容され、その環境からごく自然に”戦果アギャー”の一群に身を投じた。沖縄の暴力団事情に詳しい琉球新報の記者によれば、翁長は沖縄を愛してやまない生粋の武闘派ナショナリストとして知られているという。

引用:佐野眞一著『沖縄 – だれにも書かれたくなかった戦後史 上』(集英社文庫)219㌻

説明は不要かと思われますが、反社会的勢力の側にいた人物のお悔やみ記事を掲載することが果たしてこのご時世に好ましいのでしょうか。だがしかし翁長氏は2011年に引退していて死亡時には一民間人ですし、お悔やみ記事も遺族の非常な気の使い方を感じます。それならば「個人の立場で掲載した」という言い分もギリギリ成り立ちますが、では次のケースはいかがでしょうか。

*上記お悔やみ記事は令和元年7月15日付沖縄タイムスより抜粋

はい、説明不要です。現役組のお悔やみ記事で、友人代表にそうそうたる反社会勢力側の人物がずらりとならんでいます。以前もこの件にふれましたが、同じ記事を掲載した琉球新報社は「一般の方である喪家から申し込みをいただき、指定暴力団による組織としての葬儀ではなく、ご家族が喪主の一般葬であるとの認識で掲載した」と無理がありすぎる言い訳をしていました。

表現の自由は一般社会において最大限に尊重されるべきです。ただしそれは繰り返しますが「公序良俗に反しない限り」という大前提があっての話であって、

広告料を支払えば、もっともな理由づけで反社会的勢力のお悔やみ記事を掲載するマスコミが「表現の自由」を語るのはずうずうしいにも程がある

と突っ込まざるを得ないブログ主であります。