血縁カリスマの考察

以前、当ブログにて我が沖縄社会は血縁を通じてカリスマが継承されるという考え方がないことについて言及しました。その際になぜ血縁カリスマの発想が生まれなかったかについては触れませんでしたが、偶然にもその理由のひとつに気が付きましたので今回記事に纏めてみました。

それは羽地朝秀著『中山世鑑』をチラ見していた時に、『琉球国中山世鑑巻一』に記載されている義本王(ぎほん・おう)の譲位物語にその答えがあるのではと閃き、調子に乗っていろいろ考察してみました。その前に義本王の祖父にあたる舜天王(しゅんてん・おう)について説明しますので読者のみなさんぜひご参照ください。

舜天は”理想的君子”そのもの

『中山世鑑』によると舜天は日本国の第56代清和天皇の孫、六孫王(源経基)より七世の後胤、源為義が八男、鎭西八郎為朝の男子とあります。前ふりがやたら長ったらしいのですが、一言でまとめると「これ以上の血筋はないお方」になりましょうか。「本当?」なんて野暮な突っ込みは置いといて、舜天は考えられる限り最上級の血統の持ち主に設定されていることを頭に置いてください。

次に能力面ですが、父為朝と一緒に日本に渡ることができなかった舜天少年は浦添に移り住んだのですが、器量が優れていて1181年に住民に推される形で浦添按司(うらそえ・あじ)になります。その後当時の国主であった天孫氏25代王を毒殺した逆臣利勇(りゆう)を討伐して、これまた群臣に推される形で国王に即位します。つまり舜天は器量抜群の有徳の人物として描かれているのです。

しかも国王に即位した舜天王は理想的な政治を行ったので、国は富み民は安心して暮らせるようになったと記載されています。ちなみに理想的な政治とは古代中国大陸の唐虞三代(とうぐさんだい)の政治のことを指します。当時の琉球社会でホントにそんなことが可能だったのかと疑問に思うところですが、ここは『中山世鑑』の記述通りに話をすすめると、要するに舜天は

1、血統は申し分なし

2、器量も申し分なし

3、政治手腕も申し分なし

というまさに完璧な人物設定であることが読み取れます。

義本王は “不徳の士” である

理想的君子であった舜天王は1237年、72歳で薨じ、その長子である舜馬順煕(しゅんばじゅんき)があとを継ぎますが、在位11年で薨去され、その長子である義本が王位を継ぎます。

ところが義本が王位を継いだ翌年から疫病が流行し、人民の半ばが死亡するという大惨事が発生します。その際の義本王のコメントが儒教のイデオロギーそのもので、試しに下記を参照ください。

「『上は源、下は流れである。上は表、下は影である。表が正しければ裏も正しいし、源が清らかであれば、流れも清らかである。これは自然の理である。だから天下は人間の身体の如く、もとより気力が盛んであれば、邪なものは冒すことはできないが、気力が衰えれば邪な気が入り込むことになる』と言われている。いまの疫病は、しかし予の不徳によるものであろう。『天下は天下のもので、一人の天下に非ず』という言葉もあるから、誰かに国を譲るべきなのだ」

引用:諸見友重訳『中山世鑑―訳注』(琉球弧叢書 24)  57㌻より抜粋

補足すると儒教は政治万能主義で、「有徳の君子が良い政治をすれば天下は正しく治まる」との方針で貫かれています。良い政治とは前述したとおり唐虞三代の政治のことですが、そうすれば自然現象すら制御できる、具体的には天災も疫病もなく、人民は安心して暮らせるとの発想があります。

そうすると世の中に天変地異や疫病の流行、あるいは飢饉の発生などの惨事が起こった場合は、「正しい政治を行っていないからだ」との発想になり、とどのつまり「君子が有徳ではないからだ」との結論になります。義本王の発言はまさにこの発想で、『中山世鑑』によると有徳の士(英祖)を招聘して政治を行わせたところ、疫病がやんで世の中が安定したとの記述があります。

『中山世鑑』において義本王は “不徳の士” として描かれており、それ故に彼は王位を去らなければならないという結末は、果たして史実か否かという疑問が湧きます。今回はこの点には突っ込みませんが、読者の皆さんはこの物語において血統的には申し分のない義本王が血縁を通じて祖父舜天の徳性が継承されていないことに注目してください。つまり著者の羽地朝秀はこのストーリーをとおして「血縁を通じて徳(=カリスマ)が受け継がれるとは限らない」ことを訴えているのです。

沖縄県民に意外な影響を与えている義本王の譲位物語

ここでブログ主は「血縁を通して徳が受け継がれるとは限らない」と曖昧な表現を使いましたが、それには訳があります。なぜなら『中山世鑑』において舜天は父為朝の資質を受け継いだ設定になっているからです。『琉球国中山世鑑巻一』を読むとくどい程に「為朝マジすげー(意訳)」の記述がありますが、その理由として息子の舜天が父の資質を受け継いでいることを強調する狙いがあったことは間違いありません。

ただし為朝から舜天と受け継がれた資質は、なぜか第一子の舜馬順煕に受け継がれたかどうか定かではなく、しかも嫡孫の義本は “不徳” の資質の持ち主になっています。ブログ主が案ずるにその理由として、古代中国大陸の堯から舜、舜から禹の譲位物語を援用したのではないかと考えていますが、いまとなっては真相は闇の中です。

『中山世鑑』が沖縄県民に広く読まれるようになったのは明治以降になります。そして義本王の譲位物語は一度は耳にしたことがある読者もいるかもしれません。ブログ主は沖縄県民はこの物語を通して、「どんなに血統が良くても、その資質が子孫に受け継がれるとは限らない」ことを学んだのではないか、それ故に遂に血縁カリスマの発想が生まれなかったのではと考えています。ちょっと強引にも思えますが、『中山世鑑』の編纂方針は「血縁によって徳(=カリスマ)が継承されるとは限らない」で貫かれており、そのことが後世の沖縄県民に影響を与えていないとは考えられないのです。

最後に余談ですが、琉球王国の末期および琉球藩の時代は義本王の時代に匹敵する(かもしかしたらそれ以上)の惨状のように思えます。ということは羽地以降の後世の王家および為政者たちは『中山世鑑』の教訓を全く生かさなかった、いわゆる”大不徳の士”だったのかと、ちょっと意地悪なことを考えたブログ主であります。(終わり)