今回は昭和15年(1940年)8月25日付沖縄朝日新聞の記事を紹介します。これは支那事変3周年を記念した特集号で、当時の沖縄社会の様子が写真つきで掲載されている一級の史料です。そのなかに『職場より戦線へ!』と題して沖縄朝日新聞社の社員さんの集合写真が掲載されていました。それと支那戦線で奮闘している兵隊さんたちへのメッセージもあり、ブログ主が全文書き写しましたので読者の皆さん是非ご参照ください。
㐧二回特輯 – 皇軍慰問號『職場より戦線へ!』
やあ戰友諸君”泡盛一杯進上”といひたいが戰地と祖国をはなれた今は元氣でやつてくれと祈るばかりだ。胸を揺さぶる那覇港頭の萬歳を浴びて再び故國の土を踏んだわれゝの目に映つたものは、事變この方三年雄々しく護られた郷土の溌剌たる姿だつた。戰塵を洗つて懐かしい職場におちついたけふこの頃夢に浮ぶのは懐しい銃音や喉を愉やしたクリークの水、蒲團のない露營の夜の斷片なのだ。南國の女王”梯梧”も眞つ赤に咲いて散つた。明るい野や海には夏の幸福を囁いてゐる。こうのんびりした姿でお目見得してはあとに殘つた諸君には濟まんようだが、戰地で鍛えた精神は筋金入りだ。いつでも戰場へ返る用意はちやんと……、軍服を拔いで夫々の職場におちついた勇士たちは新聞記者やお醫者さん、サーベル氏、商人、役人と姿はさまゞに變つたが銃後の職場を護る心はつねに戰場の構へ、くにのことは心置きなくどうぞ元氣で戰つてくれ
– 本社屋上で記念撮影
前後右から名護良英上等兵、瀬長亀次郎伍長、仲村渠致良上等兵、中列平岡楠夫軍曹、比嘉堅昌中尉、又吉昌秀軍曹、友井眞三上等兵、後列謝花良光上等兵、仲村渠致權中尉、大城勇上等兵、渡嘉敷重義上等兵、仲村渠喜永伍長
高嶺朝光著『新聞五十年』によると、「昭和12年(1937年)支那事変勃発後に瀬長亀次郎さんは沖縄の記者から真っ先に召集され、そして昭和15年(1940年)に帰還し沖縄朝日新聞社に勤務していた」との記述があります。上記引用はそのことを裏付ける内容で、同年8月ごろには亀さんは支那戦線から帰還していたことが分ります。
ちなみに社員の集合写真は下記参照ください(前列中央が瀬長亀次郎伍長)。
この写真はおそらく(現存する中では)最も若い瀬長亀次郎さんの容姿かもしれません。後年の痩せぎすの印象はなく、精悍な顔つきで健康状態もよさそうに見えます。
次に確認できる写真は昭和23年(1948年)、うるま新報社長として米国軍政府情報部長ハウトン大尉と並んで撮影したものです。仲宗根源和著『沖縄から琉球へ=米軍政混乱期の政治事件史』の中に掲載されていましたが、皇軍慰問號特集記事に伍長として撮影されてから8年後に、かつての敵国であった米軍人と並んで写真撮影するなど夢にも思わなかった筈です。戦地で鍛えた筋金入りの精神も運命には逆らえないのかと思いつつ、今回の記事を終えます。