翁長助静氏の足跡を訪ねて~魂魄の塔

先日、沖縄タイムス社編『私の戦後史 第5集』に掲載されている翁長助静氏(1907~1983)の章を参照中、意外な記述を発見しました。それは糸満市米須にある「魂魄の塔」のネーミングは助静さんが提案したとの内容です。ひめゆりの塔、健児の塔、そして魂魄の塔は当時(昭和21年)、糸満市米須に一時収容されていた真和志村民の手によって遺骨収集およびこれらの碑が建立されたのは有名ですが、だれがネーミングを提案したか今回初めて知って驚きました。よろしければ下記をご参照ください。

*現沖縄県知事の翁長雄志氏は助静氏の三男です。

もうひとつ摩文仁時代で忘れることのできないのが遺骨の収集作業。当時摩文仁の戦場跡ではいたるところに遺骨が散乱していた。そこで金城和信村長の提唱で村民総出の収集作業に乗り出し、散在する何万という遺骨の九割方がこの時に収骨された。まさに特筆されるべき事業であろう。

併せてこのとき、乏しい資材を工面しながら「ひめゆりの塔」「健児の塔」を建立、氏名の判明しない軍人、軍属、一般住民の遺骨は「魂魄の塔」を建てて納めた。米須部落の南方海岸。この塔を建てるとき真和志村では、金城村長と私の二人で碑銘をどうするかでちょっとした議論となった。

当初の案としては「忠魂」「忠霊」「英霊」の塔などが一応話題となったが、当時の情勢は反米的なものの言い方はまったくタブーの時代。とくに“忠”という言葉は米軍から強くきらわれていた。米軍のごきげんを損ねるわけもいかんが、かといってあまり軟らかい感じでもいかん。

そこで思案の末に私が提案したのが「魂魄の塔」。これは“鬼”の字が入っているので「死して護国の鬼となる」の意にも通ずるということで金城村長も気に入って決定。書は達筆な金城村長が、碑の裏の歌は私がつくった。

〈和魂(にぎたま)となりてしずまるおくつきの み床の上をわたる潮風〉

ペンネームの「原神青酔」で記したが、これは戦前の文学活動で私が使っていたもの。悲惨な戦争犠牲者のめい福を祈るとともに、とくに最後の「潮風」の中に、「これからの沖縄にはもっと厳しさが襲ってくるだろう」という思いを込めて詠んだつもりである。(私の戦後史 翁長助静 1981年3月~4月 沖縄タイムス連載)

そこで本日(8月25日)に実際に魂魄の塔を訪れて、助静氏の足跡があるかを確認してきました。宜野湾市から車で1時間程度で糸満市にある南部戦跡に移動できます。

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・魂魄の塔の左横に当時(昭和21年)の真和志村長であった金城和信氏の銅像と、東京大学名誉教授の宇野精一氏による碑文があります。

・正面から魂魄の塔を撮影しました。長年の風化の影響で「魂魄の塔」の文字は読み取ることができません。

・魂魄の塔の左隣に石碑が2つあります。そこに助静氏が詠んだ鎮魂歌の碑がありました。

・この鎮魂歌は本来魂魄の塔の裏側に刻まれていましたが、長年の風化の影響で読めなくなったため(右上)、平成7年6月に新たに歌碑を建立したとの記述がありました。

歌意は、和魂(にぎたま)「平和でもの柔らかい徳を備えた霊魂」となってねむるおくつき(奥津城=墓)のみ床の上を潮風が吹きわたっている、ということです。

終戦の翌年の昭和二十一年一月、沖縄の各地に散らばっていた旧真和志村民は自分の村に帰る予備的措置として、この米須一帯の地に集結させられました。

沖縄戦において、島の南の果てまで追いつめられ、逃げ場を失った日本軍や民間人は、ここで夥しい数の戦死者をだしました。戦死者の屍は目をおおうばかりに散在し、放置されたままとなっていました。

このような惨状をみかねた当時の金城和信真和志村長は、村民に呼びかけ、遺骨の収集へと乗り出しました。そのとき、糸満高校真和志分校校長をされていた翁長助静先生は、生徒を指揮して遺骨収集の先頭にたつかたわら、この魂魄の塔の建立に協力し、表記の歌を墓碑の裏に刻まれました。

この歌はいわば無名の戦死者に捧げられた鎮魂歌となっています。

なお、当時の歌碑は長い年月の流れで風化され、歌の文字もほとんど読み取ることができないまでに失せてしまっていました。そこで、この歌碑はこれに心を痛めた当時の教え子たちが、戦後五十年の節目にこの歌碑を建立しました。

平成七年六月。

この鎮魂歌の特徴は琉歌ではなく「和歌」で詠まれたことです。おそらく助静さんが若かりしころに短歌にはまって「れいめい」などの短歌集を出版したこと無関係ではありませんが、あえて和歌で鎮魂歌を刻んだところに時代を感じるものがあります。そして「み床の上にわたる潮風」の下の句からは当時の一面焼け野が原の米須部落の様子を伺うことができます。

『私の戦後史』に記載している内容と、現地で確認できた歌碑に刻まれた内容が一致しているため、「魂魄の塔」のネーミングの提唱者が助静氏であることは間違いなさそうです。翁長助静さんと言えば真和志と那覇の合併の立役者、あるいは「選挙男」で有名なお方ですが、意外なところに歴史的な足跡を残していることにビックリしました。そして現在の平和のありがたさをかみしめながら参拝して魂魄の塔を後にした次第であります。(終わり)

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