今回は『中山世鑑』に絡んだネタで、義本王の墓について言及します。今回わざわざ国頭村辺戸のお墓を訪れた理由のひとつに、「舜天王の墓の所在は確かではないが、義本王の墓は存在しているのは何故か?」の答えのヒントが隠されているのではと思いつき、つい調子に乗って辺戸までドライブしてきました。
その前に舜天王の墓について、笹森儀助さんの証言をご参考ください。
余が最も参拝を希望せるは舜天王の墓なり。依て其(の)所在を問ふ。吏員及(び)門監等其(の)墓無しと言ふものなし。只云、某地にあるべしと曖昧の答を為せるのみ。是より歴史を調べ或は藩吏の古老に問へども亦判明せず。
近時他府県人の著書に舜天王の墓所は首里金城村にありと書するにより、後ち再度其(の)役所に至り、所長西常央に問ふ。答曰、先般小官も取調たるに其(の)碑文は樹木の植付に関する謝文にて毫も墓碑に関係なし。従来各著にあるも実は信を置くに足らずと
引用:笹森儀助著『南島探験』13~14㌻
舜天王の墓と言えばナスの御嶽を思い浮かべる読者もいるかもしれませんが、笹森儀助さんの著書には言及されていません。『南島探験』は明治26年(1893年)の沖縄訪問記ですので、ここは笹森儀助さんの証言を信用して記事をまとめていきます。
・宜野湾市から国頭村辺戸岬まで車で2時間強、辺戸岬をちょっと超えたあたりに辺戸蔡温松並木保全公園の駐車場があり、その近くに義本王の墓があります。
・ちなみに案内図の「①義本王の墓」の説明は下記参照。
①義本王の墓
琉球王国舜天王統の第三代目義本王が、中山王の王位につくと天変地異や疫病が続き義本王は火あぶりにされかかったが、大雨で難を逃れ国頭間切辺戸に逃れ、辺戸ノロと恋仲になり一子をもうけ、辺戸にて生涯を終えたといわれている。
一説によれば、その一子が第二尚氏王統を開いた尚円王の祖先だと伝えられている。
・駐車場から少し歩いたところに「義本王の墓入口」の看板があります。
・道を横断したところに、もうひとつ義本王の墓の看板があります。階段を上っていきますが、写真からもお分かりのように傾斜がキツいので足元に注意しながら登っていきました。
・階段を上りきった後も、緩やかな坂道をどんどん登っていきます。なおやぶ蚊がウザかったので虫よけスプレーを持参したほうがよかったなと思いました。
・義本王の墓の看板です。書き写しましたのでご参照ください。
義本王の墓
義本王は沖縄最初の王統である舜天王統の第三代目国王で、西暦1249年に即位した。
しかし、即位した翌年から大飢饉・天変地異・疫病が起き、これは自分の不徳によるものであると王は次期王統の創始者である英祖を召して国政を代行されたところ、病気もやみ国が治まった。義本王は在位11年で英祖に譲位し、その後のことは伝わってないとされる。その他にも、国が乱れたことに怒った群衆が王を火あぶりの刑にしようとしたため逃げたとする説などもあり、実際はどのように権限の委譲がなされたかはわかっていない。
墓は琉球建築の石工技術を活かし、仏教建築の影響を受けたと思われる家型の独特な外観をなす建築物であり、1983年に国頭村指定文化材(建築物)に指定された。墓室内中央に大型の厨子甕が安置されており、これは明治の改修時に尚家から送られた五尺の大陶棺と思われる。
・昭和58年(1983年)に国頭村教育委員会が建立した義本王の墓の石碑です。
・義本王の墓入口ですが”ヒンプン(屏風)”があることに注目してください。これは本当に珍しい。
・ヒンプンの右側を通ってお墓の前に移動します。墓入口の作りは亀甲墓と同じように見えます。
・お墓は縦横3弱メートルの正方形で、高さは2メートル弱で、想像していたより立派な建築物でした。
いかがでしょうか。ブログ主には神祠のような、お墓のような、それでいてヒンプンがあるという不思議な建物に見えました。神祠をイメージしたのは、以前今帰仁城跡で「阿応理屋恵(アオリヤエ)火之神の祠」を見たことがあり、ほぼ同じ大きさだったことを思い出したからです。試しに写真を貼り付けしますのでご参照ください。
一説によると琉球・沖縄の歴史において墓を建てる習慣は仏教伝来後、つまり英祖王以降のことなので、そうなると舜天王のお墓が存在せず、義本王のお墓が存在するのはますます奇妙に思われます。お墓の形状が神祠に似ているので、もしかするともともと拝所だったところが何時の間にか義本王の墓として伝承されたのかもしれません。
義本王は実在が怪しまれる人物ですが、沖縄本島の北のはずれに祠に似たお墓があるとの言い伝えから考えると、やはり彼はまともな死に方ではなかったと想像しつつ、国頭村を後にしたブログ主であります(終わり)。