(続き)前の記事で廃藩置県以前の琉球社会には(一部の例外を除いて)結社の概念がなかったことを説明しましたが、今回は補足として女性たちの世界についても言及します。女性たちの世界の代表的なものに辻町、仲島、渡地(わたんじ)などの花街と那覇東町を代表とする市場があります。
今回は市場についてお話しますが、琉球王朝時代の市場は典型的な女性たちの世界であり、その様子を太田朝敷著『沖縄県政五十年』から紹介すると、
商取引はどんな風に行われたかというに、その七八割は婦人の手で行われたのである。第一市場では売買とともに近在の婦人と那覇の婦人の手によるものが多く、キシゲーと称する露店や、東町屋の主人や、各種の行商が殆ど婦人であった。然らば商品の仕入れはどうしたかというに、卸店にはきまった仲介者があり、この仲介者は例外なしに那覇の士族の婦人で、穀物でも茶や素麵や油類でも、露店の持主や行商達が仕入れに来ると、仲介者が程よく配当してやるという仕組になっていたが、仲介者はそれで何分からの口銭を取ったもので、この風は藩政時代からの遺風である。(下略)
引用:太田朝敷著「沖縄県政五十年」202㌻
と記載され、市場を仕切る女性の仲介者たちの活動を伺うことができます。実は廃藩置県後に、那覇市場の女性仲介者から経営者は1人も誕生していないのです。
ここで経営者とは “近代的な経営で会社を営む者” を意味しますが、具体的には投機ではなく 投資で利益を上げる人物のことを指します。参考までに
琉球・沖縄の歴史における初の女性経営者は金城キク女史(1909~1966)
で、彼女は新教育(第一高等女学校→東京実践女子大国文科中退)を受けた典型的な沖縄出身の日本臣民なのです。
もうひとつ面白い例を紹介します。我が沖縄においてはじめて婦人会が結成されたのは大正3年(1914)、読谷村で設立されましたが、初代会長がなんと男性(当時の村長知花永康氏)なのです。婦人会の設立理由が、同村の孝女(山城ウシさん)の業績を村内に伝えることでしたが、外間米子監修『時代を彩った女たち』によると、
ところが、肝心の婦人たちの発表力はゼロに近く、組織運営どころか組織の何たるかも知らない。それで婦人たちが自分で運営できるまではと、村長が村婦人会会長を務め、各字では区長が字婦人会長になり、三年後には婦人たちによる運営となったのである。(下略)
引用:外間米子監修「近代女性史 / 時代を彩った女たち」27~29㌻
の有様で、大正時代になっても民間において結社の何たるかが浸透していなかった事例としてきわめて興味深いものがあります。
ここまで廃藩置県後の沖縄社会において結社の概念がなかったことを説明しましたが、では当時の沖縄県民はどのようにして組織の何たるかを理解していったのでしょうか。
おそらく明治以来に全県レベルで導入された義務教育と徴兵制度、それと明治以来に伝来した浄土真宗やキリスト教などの宗教団体の影響が考えられますが、決定的な影響を与えたのは間違いなく “模合” です。
つまり当時の沖縄県人は模合のイメージで結社の概念を理解したのです。
次回は沖縄の近代史において極めて大きな影響を与えた模合について言及します(続く)