第一回県費留学生の謎

今回は明治15年(1882年)の第一回県費留学生の気になる点について言及します。『太田朝敷選集〈下巻〉』に年譜が掲載されていますが、その中で同年12月4日、上京した留学生たちが明治天皇に拝謁したとの記載記載がありました。詳細は下図をご参照ください。

*第一回県費留学生:1882年(明治15)年、沖縄から県費で東京へ留学した謝花昇、岸本賀昌、太田朝敷、高嶺朝教、今帰仁朝蕃(中途で帰郷、山口全述に代わる)ら5名のこと。学習院から農科大学や高等師範、慶応大などで学ぶ。

明治14年 末頃(あるいは翌年始め)、首里の三青年とともに沖縄県師範学校へ入学し、寄宿舎へ入る
明治15年 6月、沖縄県師範学校速成科を謝花(昇)、岸本賀昌ら7名と卒業、初等科の予科へ編入
明治15年 10月21日、太田、謝花、岸本に東京留学の辞令がおりる(学費1か月10円、期間3年)
明治15年 11月16日、第一回県費留学生、商船平安丸(2000㌧)にて上杉県令と那覇を出発、(中略)12月3日東京に到着し、芝に滞在、4日明治天皇に拝謁する
明治16年 1月11日、謝花らと学習院(院長・谷干城)の別則漢学科(中学科?)へ入学(沖縄県から毎月7円給与される)

ちなみに明治15年10月21日および11月16日の出来事は上杉県令の日誌に記載がありましたが、12月4日の明治天皇拝謁の件はいまのところ詳細な記述が見当たりません。ブログ主が確認できたのは、大里康永著『沖縄の自由民権運動 – 先駆者謝花昇の思想と行動』の56㌻にこの案件が記述されているのみです。試しにその記述部分を抜粋しました。

東京遊学時代

学習院に遊ぶ 12月3日に5人の派遣生は入京したのであるが、入京と同時に、県令鍋島直彬の邸に招かれ、饗応を受けたあと、芝愛宕傍の細井清吉という人の家に下宿するようになったのである。さらに、その翌日、この南島の珍客は、畏れ多くも明治天皇に拝謁を仰せつけられ、金一封およびお吸物等を御下賜されたのである。名もなき南島の子弟らが、大帝の拝謁を仰せつかったということは、どれほど光栄の極みだったかわからない。(下略)

なぜこの一件が気になるかといえば、太田朝敷先生の著書『沖縄県政五十年』に留学生時代のエピソードとして明治天皇拝謁の件が言及されていないからです。「名もなき南島の子弟らが、大帝の拝謁を仰せつかったということは、どれほど光栄の極みだったかわからない。」と記述している以上、何らかの記述があってもおかしくはないのですが、本当に見当たらないのです。

謝花昇年譜草稿に記載がない

昭和51年(1976年)3月31日に田港朝和氏によって作成された『謝花昇年譜草稿』によると、

明治14年 7月20日、間切から選抜され、強制的に師範学校に入学させられる。
明治15年 10月21日、太田朝敷・岸本賀昌・謝花昇の3人に東京留学の辞令が渡される。
明治15年 10月26日、伊江朝沢、今帰仁朝蕃に東京留学の辞令が渡される。
明治15年 11月2日、伊江朝沢が病身を理由に東京留学を辞退し、かわりに高嶺朝教がなる。
明治15年 12月28日、学習院の漢学科に入学。

と記述されていますが、12月4日の天皇拝謁の件が記載されていません。学習院の漢学科への入学日時に相違がありますが、これは『謝花昇年譜草稿』の作成において田港氏が大里康永氏の記述を参照にしたからでしょう。沖縄県師範学校入学から東京留学の経緯に関しての記述に大差はありませんが、唯一の例外が「明治天皇拝謁」の有無です。年譜作成において大里氏の著作を参照にした田港氏がなぜ天皇拝謁の件を掲載していないのか、この点が実に腑に落ちません。

高嶺朝教氏の談話にも言及されていない

昭和7年3月20日付の琉球新報に掲載された『最初の遊學生 – 高嶺朝敎翁の談』を参照すると、東京留学のエピソードとして言葉で苦労したとか断髪したとかの記述はありますが、肝心の明治天皇拝謁の出来事に全く言及していません。これはどう考えてもおかしいです。12月4日の拝謁が事実なら特筆特大で取り上げるはずですが、肝心の高嶺翁がこの件に関しては全く触れていないのです。

太田、高嶺、岸本、謝花ら当時の留学生たちが天皇拝謁の意義を理解できないはずがないのです。にも関わらず当事者がこの案件に言及しない。実は『太田朝敷選集〈下巻〉』の年譜に関して、12月4日の天皇拝謁のエピソードがどの史料からの引用なのか記載されていないのです。明治天皇への拝謁は果たして事実なのか、正直なところ疑わざるを得ません。

謝花昇のイメージアップのための勇み足なのか

大里康永著『沖縄の自由民権運動 – 先駆者謝花昇の思想と行動』はあまりにも恣意的な文章構成のため、ブログ主はこの著作の信ぴょう性を疑問視しています(ただし著作中の引用史料は一見の価値あり)。琉球・沖縄の歴史上はじめて平民出身者が明治天皇に拝謁したというエピソードは謝花のイメージアップにつながりますので、その点を狙っての記述なのでしょうか。

単にブログ主が裏付け史料を発見できないだけなのかもしれません。極端なまでに謝花を美化している大里氏の著作ですが、さすがに天皇拝謁をでっちあげる度胸があるとも思えません。今となっては真相は闇の中ですが、この案件に関しては気長に裏付け史料を追跡しますので、何らかの情報があればご一報いただけると大変ありがたいです。読者の皆さんご協力よろしくお願いします。