突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – 戦果編

戦後から復帰前までの沖縄を舞台に「戦果アギヤー」をヒーローにした青春小説「宝島」が、沖縄県内で異例の大ヒットを飛ばしているようで、沖縄県立図書館にも貸出予約が殺到しているようです。

直木賞「宝島」、読めるのは3年後!? 沖縄県立図書館に予約殺到

残念ながらブログ主はまだこの小説を読んでいませんが、昭和 20 年から 27 年ごろにかけての”戦果”の実態についてはある程度把握してますので、今回蒐集した史料の一部を公開します。注意点として現代人にも読みやすいように記事の旧漢字は訂正し、必要に応じて句読点も追加しました。あと印刷つぶれの箇所は無理に推測はせず●で表記してます。ホントは怖い”戦果”のお話、読者のみなさんぜひご参照ください。

1948年10月22日付沖縄タイムス

タバコ三百ボール盗む  15 日夜半那覇MG食料倉庫の扉をこぢあけ●●用莨 300 ボールを盗んだ事件があり急報に那覇署では直ちに犯人捜査を開始犯行後8時間という近來になスピード検挙をつた。被疑者は塩川寛二(27)無職狩俣憲助(27)フォートサービス職工 = 何れも宮古城辺村出身 = で共謀の犯行を自白。

初めにブログ主が確認した限り最初の”戦果”に関する記事を紹介します。補足すると昭和23年7月1日に創刊号を発行した沖縄タイムスは、印刷設備が整わず、しばらくの間は謄写印刷(ガリ版)で発刊してました。ちなみに1ボールは 20 本入り煙草のことで、1カートン(10本入り)が闇相場 200 円の当時もしすべてを売りさばくことができたら一財産を築き上げたこと間違いないでしょう、残念ながらつかまってしまいましたが……

1948年11月10日付沖縄タイムス

娘を囮に部隊荒らし一名射殺さる 去る1日晩、糸満町3区5班玉城亀二(48)が泊エンヂニア部隊構内に侵入せんとして射殺された事件があり、那覇署で取調の結果同夜共犯者糸満町町3区4班金城武吉(32)他7名は刳船で糸満から泊海岸へ渡り、娘2人をにまんまと監視兵を篭絡トタン其他資材を盗み出す途中他の監視兵に発見発砲されたことが判明、一味は同様手段で数回に亘り窃盗を働いており主犯とみられる金城は逃亡捜査中。

窃盗目的で泊エンジニア部隊に侵入した賊が監視兵に射殺された事件ですが、くり船でわざわざ糸満から那覇に移動して、しかも監視兵を篭絡するために女性を使ったいう手口に驚きを隠せません。船を準備していたということは大掛かりな窃盗の可能性が高く、おそらく戦果品は県内のみならず糸満から海外に売りさばく予定だったのかもしれません。

1948年11月24日付沖縄タイムス

窃盗と組んだ警官 – MG那覇倉庫を荒らす 倉庫破りの鼠賊と結託して悪銭かせぎを働いた警察官の汚職事件が現われ世人の注視をあつめている。那覇署では糸満町4区 25 班無職高嶺朝英(29)を取調べたところ、意外にも那覇GM倉庫監視那覇署巡査石川元徳(25)東村有銘出身 – 宮国定春(25)- 宮古出身の2名が高嶺の犯行に協力して同倉庫から大量の衣類を持ち出させてもうけを山わけにしたことが判明取調べ進展に伴って元那覇署巡査西里栄浩(45)宮古城辺町出身喜納政英(30)本部町謝花出身の2名も登場前記高嶺のほか巡査の協力による数名の倉庫荒らしも発覚した。(中略)

戦果に関連する警官による汚職事件です。この案件はバレたことで新聞沙汰になりましたが、おそらく各地に設置された倉庫で同じような汚職が起こっていただろうことは容易に想像できます。

1948年12月1日付沖縄タイムス

診療所から総ざらい盗む このほどAJ普天間キャンプ内診療所から器具薬品電球まで一点残さず総ざらいした盗難事件があり、同キャンプ警備隊、コザ署が総力で捜査の結果、前同キャンプ勤務前田茂一郎(21)巴●良(20)の両名を犯人として挙げた、何れも大島鬼界島字龍川出身で被害額 1000ドル余、●品は押収された。

SPDCで射殺  具志川村田場区6班●●慶松(36)ほか2名は 11 月 22 日午前4時頃天願SPDC倉庫に侵入衣類2梱包を盗み更に午前5時頃侵入した時に比島兵ガードに●可。逃走せんとして射殺された。

沖縄各地に設置された倉庫からだけではなく、キャンプ内施設からも盗難が横行していたことを伺わせる記事です。しかし診療所内のありとあらゆるものを盗んだ荒っぽい手口には驚きを隠せません。

1948年12月22日付沖縄タイムス

▷QMカード募集

沖縄タイムスの広告欄に掲載されたガードの募集記事ですが、当時闇価格でタバコ1カートンが約 200 円であることを考えると、すごい安月給で人員を募集していたことが分かります。そしてガードが”手引き役”として窃盗団に協力的だったのも納得の史料です。

1949年6月5日付沖縄タイムス

大がかりな食糧拔取り倉庫職員もぐる 那覇署では多量の米、メリケン粉が所謂戦果品として市内に流れこんだ風評を探知、被疑者として那覇市5区4組酒造業仲村清秀(36)を取調べの結果、中央倉庫関係職員らとグルになった大がかりな倉庫拔取り事件が判明した、エム・ジー第二倉庫主任上地吉之助(48)、当時糸満倉庫眞玉橋景福(31)其他倉庫係チャッカー、出入荷係ら 10 名は共謀して1月末頃、倉庫政府の際メリケン粉5袋を盗り、真和志村内売店に搬入、知り合いの仲村と結託し、糸満中央倉庫に搬入すべく装い、同人宅に運搬して1袋 1,600 圓で処分、更に2月にも同様手段で 43 袋を盗り、また3月末には勝連港から直接ビルマ米 30 袋を拔荷し山分けしていたもの

金庫破り四千余ドルを盗む 5月 20 日、小禄 51 航空部隊労務事務所の金庫が破られ、米軍票 4,700 余ドルとB軍票 117,000 円の現金が盗まれ犯人捜索中。

戦果品がどのような経路を経て沖縄社会に出回ったかが分かる記事です。実際に戦果品は”売りさばく”か”物々交換”しないと意味がないわけで、おそらく真和志村の売店もグルでの大々的な犯行と考えられます。

1949年7月17日付沖縄タイムス

冷凍肉七台分を盗む 去る 21 日ホワイトビーチ桟橋停泊中の冷凍船より天眼QM倉庫に冷凍肉類を輸送中一夜の中にトラック7台分ぬすまれた事件があり、軍よりの通報にコザ署では被疑者として漢那安三、井口善清(22)、運転手中村政の3名を検挙したが、3名は氏名不詳の比島(フィリピン)兵チャツーカと共謀で、ポーク 10 箱(36斤入)ソーセイジ 18 箱(40斤入)バター 15 箱(60斤入)合計四三箱をぬすみ 4万8千円 で売却していたもの。

大掛かりな窃盗案件で、トラックごと物資が消えるというとんでもレベルの内容です。しかも全部売りさばいたところがすごい。

1949年8月7日付沖縄タイムス

火薬を盗る さきのグローリア台風当日、小禄 51 航空部隊瀬長島工事現場火薬庫、電気雷管並TNT火薬 14 箱の盗難があり、那覇署では去る 15 日被疑者として豊見城村瀬名外高木弘(25)- 仮名 – を調べた結果、同人他同の青年達数名共謀の仕業と判明した

昭和24年(1949年)7月23日に沖縄本島を襲撃したグロリア台風に関しては当ブログでも記事を配信しましたが、あれほどの猛烈な暴風のなかで窃盗を企画・実行するとは空いた口がふさがりません。

以上が昭和 23~24 年ごろの沖縄タイムスに掲載された”戦果”に関する記事です。生き残るためとはいえ、当時の沖縄社会では”戦果”が一大産業として確立していたことが伺えます。ちなみに「ことばに見る沖縄戦後史 ① 」によると、

ところが、この”戦果”が、当時の沖縄の生活の”ささえ”となったのだから、すさまじい。くわしくいえば、当時の生活は、米軍からの配給をはじめ地方での農家のわずかな生産、ギブ・ミーといって米軍から分けてもらうささやかな品、そして”戦果”の四つによってささえられてた。なかでも”戦果”が、やはり大きな比重を占め、当時を生き抜いた人たちは「戦果品が沖縄をささえたといっても過言ではない」と”戦果”の重要な意義を認める。

戦後「敗戦利得者」ということばも多く聞かれたが、その「利得者」とは、まさしく、この”戦果”によって、巨大な富を築いた人たちだった。いま沖縄で巨大な富を持っている資産家の多くが、この戦後の特異な時期に莫大な”戦果”をあげたほか、”戦果”となんらかのつながりを持つ人たちであったことは、だれもが認めるところだ。

引用:ことばに見る沖縄戦後史 27~28㌻ 参照

と記載され、たとえば”善良な市民”こと喜舎場朝信さんがこの当時に一大財産を築きあげたのも理解できます。そして現在では想像もつかない沖縄戦直後の極めて厳しい時代を生き抜いたご先祖さまのバイタリティーには素直にすごいと思いつつ、今回の記事を終えます。

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