突っ込まざるを得ない記事を紹介するシリーズ – 大弦小弦

今回は平成31年4月7日付沖縄タイムス〈大弦小弦〉について言及します。まぁいろいろツッコミどころ満載の内容でしたが、要は普天間基地の辺野古移設反対運動をサポートする目的で執筆・掲載されたと見做して間違いありません。結論が決まっていて、それに合致する事柄をペタペタ貼り付けているので、どうしても文章に無理が生じます。しかも500字程度にまとめる制約がありますので、執筆者の苦労は察するに余りありますが、とりあえず全文を書き写しましたのでご参照ください。

平成31年4月7日付沖縄タイムス 大弦小弦

今年は1879年に沖縄が日本に併合された「琉球処分」から140年の節目に当たる。「琉球処分」以降、沖縄の人々は苦難の道を歩んだ。苛烈な沖縄戦やその後の米軍統治、軍事基地を抱えたままの日本復帰など時代の波に翻弄され、常に生きる「道しるべ」を模索してきた‣県民が到達したその一つが、沖縄戦を経た「命どぅ宝」であり、政府と対峙した故翁長雄志前知事の「イデオロギーよりアンデンティティー」との言葉ではないか。政治的な立場を超え、県民が一つとなり、立ち向かう重要性を示した。辺野古新基地建設の賛否を問う県民投票で、7割を超す人が反対の意を示した。翁長前知事の後を継いだ玉城デニー知事の知事選での過去最多得票を超え、政治的枠組みを超えたといえる‣が、政府は建設に推進する構えを崩さない。国土交通省は県による埋立承認撤回を取り消す裁決を下した‣琉球大学名誉教授の西里喜行さんは、本紙文化面の寄稿で「今を生きる私たちが(中略)歴史への責任を引き受けて自己決定権を希求し続けることができるかどうか、にかかっている」と指摘した‣沖縄は自らの民意で「道しるべ」を打ち立て、新たな時代の方向性を指し示した。その意味と重みを、140年の節目に、史実と合わせて考えたい。(内間健)

上記のコラムで目をひくのが「琉球処分以降、沖縄の人々は苦難の道を歩んだ。」の一節です。その根底には「沖縄は差別されてきたし、いまでも差別されている」という被差別意識があるのは明白ですが、史実と合わせて考えると琉球・沖縄の歴史で支配下住民を最も差別し、しかも搾取したのは慶長14年(1609年)以降の尚王家と王族で間違いありません。

慶長の役の結果、琉球を支配していた尚王家は薩摩の島津家に隷属することになります。ただし従来の明の皇帝との関係も維持し、所謂「日支両属」の時代になりますが、この時代の本質は「王家の存続のために敗戦のツケを支配下住民に負わせた」の一言で言い表すことができます。敗戦のツケを支配下の住民が負う構図は沖縄戦敗北後のアメリカ世と同じですが、両者には決定的に違う点があります。それはアメリカ世の時代は米国民政府と琉球政府が戦後復興に責任を持って対処し、大日本帝国の沖縄県の経済水準をはるかに超える社会を築き上げたことに対し、尚家の琉球国の場合は270年余り敗戦のツケを住民に背負わせた挙句に支配地域を貧困のどん底に陥れたことです。

だからブログ主は琉球・沖縄の歴史で支配下住民を最も差別したのは慶長の役以降の尚王家と王族だと主張するのです。戦争の敗北のツケは拒むことはできないという冷厳な事実の中で最大限の成果を引出した時代と、ツケを負わせ続けて支配下地域を貧困の極に貶めた時代の比較ができない輩が「琉球処分以降、沖縄の人々は苦難の道を歩んだ」などと主張しているのでしょうか。あるいは知っていても何らかの大人の事情があってそう言わざるを得ないのか、おそらくどちらかと思いますがこれ以上のツッコミは気の毒なのでやめておきます。

もうひとつ、「県民が到達したその一つが、沖縄戦を経た「命どぅ宝」であり、政府と対峙した故翁長雄志前知事の「イデオロギーよりアンデンティティー」との言葉ではないか。」のフレーズですが、我が沖縄社会には

すいぞうガンを患っていたにも関わらず、「命どぅ宝」を適用させてもらえなかった気の毒な政治家がいましたね

と声を大にして突っ込みたいのは気のせいでしょうか。最後に上記コラムは「沖縄は自らの民意で「道しるべ」を打ち立て、新たな時代の方向性を指し示した。その意味と重みを、140年の節目に、史実と合わせて考えたい。」と〆ていますが、最初から結論が決まっていて、それに都合のいい事柄を貼り付けする思考の持ち主が史実と合わせて考えることなんて絶対に無理だとキツいツッコミを入れて今回の記事を終えます。