今回は明治34年1月11日付琉球新報2面に掲載された論説を公開します。ブログ主はこの論説の存在を「琉球新報は何事を為したる乎」で初めて知りましたが、実際にチェックすると琉球国から明治にかけての糖業の致命的欠陥を伺うことができる第一級の史料であると確信しました。その欠陥とは流通ルートを薩摩人(あるいは鹿児島県人)の糖商に牛耳られてしまったため、黒糖の買い手が圧倒的に有利であったことです。
この件に関しては致命的な欠陥を長年放置してきた王府に問題がありますが、薩摩藩による流通ルートの独占は戦勝特権そのものですから、如何ともし難い現実があったのも事実です。糖業に関してはブログ主もあまり調べていないためこれ以上言及はできませんが、今回アップする史料でいかに生産者が搾取されてきたかを感じ取っていただければ幸いです。読者の皆さん是非ご参照ください。
【追記】この論説もなぜか「太田朝敷選集」には掲載されていません。
砂糖取引の改良を望む(旧漢字訂正・句読点追加分)
本県の経済界は砂糖季節程活気を呈するはなし。直接の関係者たる糖商及び仲買の繁忙は実に盆と正月を一所した様なり。金融界も運輸業者も樽製造者も荷造人足も各村の宿も市街も村落も砂糖車の響きを相関に何となく活気を呈し来ること恰も戦闘準備の虎砲を相関し軍陳が一斉に殺気を帯び来るが如し。それもその筈僅々六七ヶ月の間に百万円余の取引をなすことなれば、本県経済の程度にては随分活気に立廻はらざるを得ざるなり。我輩は此取引の有様を見る毎に、此社会に節制なく規律なく個々別々に只管抜駈一騎打の功名に汲々たるに驚くと共に、大なる販売会社を設立して以て糖業の基礎を固うするの急務を感ずること切なり。
本県糖の取引習慣は放縦として少しも取締りなき習慣なり。砂糖前代と称する高利貸的の手段が行はるるも畢竟此不取締の習慣より来るものなり。製糖家が奢侈の為めに所謂前代を借るなれば別問題なれども、前代は大抵製糖費用に供する為めに借るが一般の有様なれば、本県の製糖資本は多く二円に対し四十銭テンビキせられ、その上月二割五分の利子を払ひ、製糖は時価より二十銭乃至四十銭の安にて売ると云酷薄なる約定に借り入るる次第なれば、農民にして自家労力までも資本の内に算入するときは、一挺十円以上に売るも決して損益を償ふこと能はざるなり。
糖商の側より云へば、人を各地に派し此処より二三挺彼処より四五挺と買ひ集むるもの手数と費用あり。中には権衡(つりあい=秤の重りと竿)の目をせせるの狡猾手段行はるる等随分無益な費用を要し、文明の商人にあるまじき行為をなすが如きも、つまり取引習慣の不完全より来る所の弊害なり。要するに本県の糖業界は不規律不節制の極にして、酷評すれば野蛮人の取引と大差なし。
全国に於て産出する所の黒糖は七百七十四万千五百九十四貫目にして内本県糖二百三十三万五千百十一貫目は本県糖なり(三十年度の調に依る)。一地方にして本県に匹敵する所は鹿児島の一県にして他は比較するに足らざる程なり。而して本県の黒砂糖は重に大阪市場にて販売さるる有様なれば、他地方の産糖が尽く大阪に〔集まる〕とするも本県糖は殆んど仝市の半数を占むる程多額の品物を有しながら、本県の糖商が大阪の相場を制する勢力なきは、是れ本県に於ける取引が不完全なる結果にあらざるか。我輩が怪訝に堪へざる所なり。
可成的安価に精良に品物を供給するの精神は実業家の須臾も離るべからざる者なり。十九世紀物質の進歩も詮し来れば此精神より発生したるに過ぎず。然るに本県の実業家程此精神に乏しきものはなし。否乏しきと云はんより寧ろ皆無と云ふ方適当なるべし。皆無と云ふよりも其反対に如何にせば高く売りつけるかと云ふ工夫に忙がしくして、肯て(あえて=積極的に)改良進歩の点に頓着せずと云ふ方寧ろ実際に近かるべし。斯る有様にして如何でか日進の時運に随伴するを得んや。
規律節制の力は単に軍陳に必要なるのみならず文明的の仕事は総て規律節制の必要あり。是れ何事も共力(ともぢから=協力)するに利益あればなり。今日の糖商は成程一騎打の功名に味をしめたるものも少なからざるべし。然れど此状態は決して自他の利益を進むるの道にあらず。土地整理終局の暁に至りて本県の経済事情が一変するは識者を待つて後に知るべきにあらず、経済事情が一変すれば他府県より大資本家が入込むことなきを保せず、其時に及んで惚惶団結を謀るも到底及ぶ能はざるなり。我輩の考案を以てすれば縦令現在に必要なしとするも、于今(いまに=今となっては)糖商家一団となり一大販売会社を設立し以て永遠の基礎を固むるに如かず。況んや野蛮的の取引習慣を打破し、一方には生産家を利し、(無用の費を省く丈にても)一方には自家の安固を謀るの急務なるをや。(明治34年1月11日付琉球新報2面)
砂糖取引の改良を望む(原文)
本縣の經濟界は砂糖季節程活氣を呈するはなし直接の關係者たる糖商及ひ仲買の繁忙は實に盆と正月を一所にした樣なり金融界も運輸業者も樽製造者も荷造人足も各村の宿も市街も村落も砂糖車の響を相關に何となく活氣を呈し來ること恰も戰鬪準備の虎砲を相關に軍陳が一斉に殺氣を帯ひ來るか如しそれもその筈僅々六七ヶ月の間に百万圓餘の取引をなすことなれは本縣經濟の程度にては随分活發に立廻はらざるを得ざるなり我輩は此取引の有様を見る毎に此社會に節制なく規律なく個々別々に只管抜駈一騎打ちの功名に汲々たるに驚くと共に大なる販賣會社を設立して以て糖業の基礎を固うするの急務を感すること切なり
本縣糖の取引習慣は放縦にして少しも取締りなき習慣なり砂糖前代と稱する高利貸的の手段か行はるゝも畢竟此不取締な習慣より來るものなり製糖家が奢侈の爲めに所謂前代を借るなれば別問題なれども前代は大抵製糖費用に供する爲めに借るが一般の有様なれば本縣の製糖資本は多く二圓に對し四十錢テンビキせられその上月二割五分の利子を拂ひ製糖は時價より二十錢乃至四十錢の安にて賣ると云ふ酷薄なる約定に借り入るヾ次第なれは農民にして自家勞力までも資本の内に算入するときは一挺(=120斤)十圓以上に賣るも決して損益を償ふこと能はさるなり
糖商の側より云へは人を各地に派し此處より二三挺彼處より四五挺と賈ひ集むるもの手數と費用あり中には權衡の目をせゝるの狡猾手段行はるゝ等随分無益な費用を要し文明の商人にあるまじき行爲をなすか如きもつまり取引習慣の不完全より來る所の弊害なり要するに本縣の糖業界は不規則不節制の極にして酷評すれは野蠻人の取引と大差なし
全國に於て產出する所の黑糖は七百七十四万千五百九十四貫目にして内本縣糖二百三十三万五千百十一貫目は本縣糖なり(三十年度の調に據る)一地方にして本縣に匹敵する所は鹿兒島の一縣にして他は比較するに足らざる程なり而して本縣の黑砂糖は重に大阪市場にて販賣さるゝ有樣なれは他地方の產糖か尽く大阪に●●るとするも本縣糖は殆んと仝市の半數を占る程多額の品物を有しながら本縣の糖商か大阪市場を制する勢力なきは是れ本縣に於ける取引か不完全なる結果にあらざるか我輩か怪訝に堪へさる所なり
可成的安價に精良に品物を供給するの精神は實業家の須臾も離るべからざる者なり十九世紀物質の進歩も詮し來れは此精神より發生したるに過ぎす然るに本縣の實業家程此精神に乏しきものはなし否乏しきと云はんより寧ろ皆無と云ふ方適當なるへし皆無と云ふよりも其反對に如何にせば高く賣りつけるかと云ふ工夫に忙はしくして肯て改良進歩の點に頓着せすと云ふ方寧ろ實際に近かるべし斯る有樣にして如何てか日進の時運に随伴するを得んや
規律節制の力は單に軍陳に必要なるのみならす文明的の仕事は總て規律節制の必要あり是れ何事も共力するに利益あればなり今日の糖商は成程一騎打の功名に味をしめたるものも少からさるべし然れど其狀態は決して自他の利益を進むるの道にあらず土地整理終局の暁に至りて本縣の經濟事情か一變するは識者を待つて後に知るべきにあらず經濟事情が一變すれは他府縣より大資本家か入込むことなきを保せす其時に及んで惚惶團結を謀るも到底及ふ能はざるなり我輩の考案を以てすれは縦令現在に必要なしとするも于今糖商家一團となり一大販賣會社を設立し以て永遠の基礎を固むるに如かず況んや野蠻的の取引習慣を打破し一方には生産家を利し(無用の費を省く丈けにても)一方には自家の安固を謀るの急務なるをや(明治34年1月11日付琉球新報2面)