皇室と沖縄県民

今月24日、東京・国立劇場で開催された天皇陛下在位30年記念式典において、歌手・三浦大知さんが両陛下作詞・作曲された「歌声の響き」を独唱しました。このことは両陛下の沖縄に対する想いが特別であることを意味しますが、その理由として昭和天皇の悲願であった沖縄行幸が実現できなかったことへのご無念を少しでも晴らしたいお心からだと推察できます。

ここで歴史を振り返ってみると我が沖縄が日本に復帰して以降、昭和天皇の行幸のチャンスは3回ありました。一つは昭和47年11月26日の「復帰記念植樹祭」、二つ目は昭和48年5月3日に開催された「若夏国体」、そして三度目は昭和62年9月から開催された「海邦国体」です。このなかで実現の可能性がもっとも高かったのが海邦国体の時でしたが、昭和天皇のご体調の問題でついに沖縄行幸は実現しませんでした。

実は昭和天皇の沖縄行幸は屋良朝苗知事の悲願でもありました。だがしかし植樹祭の際に「両陛下のご臨席を奏請する」ことが沖縄県内に知れ渡るや、支持団体から猛烈なバッシングを受けて結果的に断念した経緯があります。若夏国体(復帰記念沖縄特別国民体育大会)も「国体」との名称を用いることで昭和天皇のご臨席を実現する計らいがあったのですが、結局うまくいきませんでした。

今上陛下の「地方へのお出まし(都道府県別)」を調べてみると、平成5年4月25日の植樹祭ご臨席を初めとして計6回あります。面白いのは復帰後初の天皇行幸である平成5年の際の沖縄県知事が大田昌秀さんであったことで、屋良知事の時とは違って彼の支持団体が天皇行幸を認めたのは実に興味深いところです。そしてこの事実は当時の沖縄県民が本土復帰を高く評価していたことの傍証になります。

そして平成の時代ですが、この31年は真の意味で平等意識が沖縄県内に浸透した時代です。つまり「天皇陛下の前では平等な日本人」という認識が一般化した時代と言えます。実は我が沖縄社会は自前で「~の前の平等」という観念を作り出すことができませんでした。明治5年(1872年)に時の琉球国王尚泰が明治天皇よって藩王に封じられたことがきっかけで「天皇陛下の前での平等」という観念が沖縄社会にもたらされます。

現在においても皇室に対して”アレルギー”を持っている沖縄県民はいるかもしれません。ただし皇室を中心とする平等社会を形成することで沖縄が発展してきたことは紛れもない歴史的事実です。現代は大日本帝国の時代と違って不敬罪はありませんし、皇室に対して何を考えても構わない時代です。だがしかしブログ主は現在の沖縄県民の天皇陛下に対する素直な気持ちは”感謝”で間違いないと判断しています。平成の御代も残り僅か、我が沖縄社会が天皇共同体の一員として新元号の時代を迎えることに最大の幸福を覚えつつ、今回の記事を終えます。