今回は史料として『琉球見聞録』の序文を掲載します。歴史的に有名な伊波普猷先生の「琉球処分は一種の奴隷解放也」の論文が有名ですね。琉球見聞録の著作者である喜舎場朝賢氏の序文は意訳等はなしでそのまま掲載します(伊波先生の論文は旧漢字を訂正しました)
琉球見聞録 序
我琉球国自古制官設職。未曾有著作編集者焉。歴代政治之得失。人物之藏否。事故之有無。不可得而考也。蓋国間於両大。政在世家。有不可直実者。凡制度変故挙措云為。大卒隠晦滅迹。習以為常。有掲著世故。人皆指以為異。而不知修史鑑古之為要。政所之案牘秘蔵于倉庫不敢示国人。是以近世之事猶且泯汲不傳。矧前古乎。国人渇聞古之故事。於和漢則艶説而誇称焉。於自国則眊眊乎不能見焉不能聞焉。豈可請善修也哉。二百有餘年前。薩兵入国。時有喜安者扈従尚寧王之駕。北至於日本而著日記。録事多闕略。百而傳一。行文缺要領。浮以傷実。庶幾乎不足名以為史矣。然而除比之外。未曾有可見当時世態変故者矣。今般有廃藩置県。事宛出乎尚寧王之覆轍。実千古未曾有有之一大事変也。予嘆其與歳時共鎖磨。隔世世則莫以可考記徴。故茆簷之下。家計之暇。竊執史氏之筆。八年間凡與日本之所関渉。随見随謄。随聞随筆。値有一事。必綜実訂訛。言簡義詳。毫不效稗官者流之好為麗飾。務悦人之耳目之習。日久而文字堆積。則編次為四巻。目之曰琉球見聞録。一己之耳目有限。数年之事故無極。身在乎局外散間之地。書成於傍観側聞之餘。矧蕪材菲識固非能可囊括得者矣。亦将不免闕略持多。脱漏不尠也。然未嘗不可見當今世態変故之概略焉。嗟乎予固知直筆招咎之罪不可遁。而有稗乎後世秉鑑之萬一則幸甚。
大日本明治十二年。大清国光緒帝五年。尚泰王三十二年。歳次己卯季冬琉球国喜舎場朝賢序。
序に代へて ~琉球処分は一種の奴隷解放也~
今から三百年前(即ち慶長役以前)の琉球人は純然たる自主の民であった。それ故に彼等は或程度までその天稟(てんぴん)を発揮することが出来た。しかしながら両大国の間に介在するの悲しさ、彼等はいつしか奴隷の境遇に沈淪して、充分にその天稟を発揮することが出来なくなった。私はここに琉球民族が如何にして奴隷となり、又如何にして解放されたかといふことを簡単に述べよう。
薩摩と琉球との関係は、三百年以前は経済的であったが、慶長の役で一変して政治的になったという事は、人の知る所である。即ち戦争の結果、尚寧王以下百官が捕虜となって日本にいっている間に、如才なき薩摩の政治家は琉球王国の綿密なる調査を遂げた。そして王の一行は俘囚となって日本に在る事二年余、誓文三章を贈って漸く父母の国に帰ることを許されたが、帰ってみると、さながら島津氏の殖民地に身を寄する旅客のような心地がしたということだ。そもそも島津氏の琉球征伐の動機は、利に敏き薩摩の政治家が、当時の日本は鎖国の時代であって長崎以外の地では一切外国貿易が出来なかったに拘はらず、琉球の位地を利用して日支貿易という密貿易を営もうとしたのにある。だから島津氏は折角戦争には勝ったが、琉球王国を破壊するようなことはせず、『王国のかざり』だけは保存して置いて之を密貿易の機関に使ったのである。島津氏が琉球人をして薩摩のことを『御国許』(本国の義)と称えさせながら、琉球王をして不相変支那皇帝の冊封を受けさせたのもこれが為だ。兎に角島津氏の琉球に対する態度は、支那思想にかぶれて『御国許』に疎遠になる者がいたら、そうかけ離れてはいけないと警戒を興へ、日本思想にかぶれて『御国許』の人を気取る者が出たら、そう接近し過ぎても困ると注意を与えるという風であった。手短に言えば島津氏は琉球人がいつもちゅうぶらりで、頗る曖昧な人類であることを望んだ。これその密貿易の為に都合がよかったからである。実に島津氏は琉球の人民よりもヨリ多く琉球の土地を愛した。これがやがて殖民政策である。奴隷制度である。この制度が出来、この政策が実行された当時、琉球人は非常に悲しんだということである。しかし世に習慣ほど恐ろしいものはない。そは長い年月の間には、どんな悪制度でも真理と思わせる強い力を有っている。最初はこれでは生き甲斐がないと言って悲しんだ琉球人も元来生を愛する民族であるから、いつしか歓楽の裡に隠れ家を見出して、ようやく一種の人生観を形づくるようになった、そして奴隷の境遇に馴致されるにつれて、遂にはそれを生き甲斐のある生活と思うようになり、かつて奴隷になるまいと力んで薩摩に殺された愛国者を嘲り、おまけにその名を組踊で悪按司の名にして、島津氏の歓心を買おうとするまでに変り者になった。悪くいえば琉球にはつい三十六年前まで玉冠、紗帽、五彩布、紫巾、黄巾、紅巾、青巾など色々の冠を戴いた美しい奴隷が数限りなくいた訳である。しかし彼等が一種の奴隷たることを覚らなかったのは、彼等に取って何よりの幸福であったといはなければならぬ。
然るに時勢は一転して御維新となった。日本人は国民的統一をなすべき機運の到来を自覚するようになった。この時に当って琉球人の心中に当然起こらなければならない疑問は、自分等の運命はどうなるだろうということであったに相違ないが、彼等はこの大問題には至って無頓着であった。前にも述べた通り所謂琉球王国は、慶長役以後は日本の一大名島津氏が名に於いては支那に、実に於いては自国に隷属させて、ひそかに日支貿易を営むために設けた機関に過ぎないのであるから、その存在の理由が無くなるや否や、動揺を来たすのは当然のことである。御維新になった結果、この琉球王国は最早島津氏の機関でないようになって、当然日本帝国の一県なる鹿児島の管轄になったから、琉球処分という問題は当然起こらざるを得なかったのである。
私は琉球処分は一種の奴隷解放と思っている。誰でも冷静に考える人は、成程と頷くに相違ない。所が三百年間このような悲しい暗い生活に馴致された琉球人は、この奴隷解放というサーチライトを差向けられて、一際まばゆく感じた、そしてこの新しい光明を忌嫌って、ひたすら従来の暗黒を恋慕った。私は近頃アメリカ黒人の偉人ブーカー・ワシントンの著書を読んで、之に似通った事実のあることを知った。それはアメリカで奴隷解放が実施された時、無自覚の奴隷等が折角自由の身にはなったが、自己将来の生活が如何になりゆくかを憂いて、泣叫んだということである。実際人間は導かれるべき理想の光を認めることが出来ず、又進むべき標的を見出しかねる場合は、自由を与えられて却って悲哀を感じ、解放されて却って迷惑に思うものである。兎に角幸福以上の或物を与えられて、その有難味を知らないのが奴隷の奴隷たる所以である。琉球史の真相を知っている人は、琉球処分の結果、所謂琉球五国は滅亡したが、琉球民族は日本帝国の中に入って復活したことを了解するであろう。
当時の琉球人がもし第三者の位地に立って、自分の立場を観察することが出来たら、彼等は廃藩置県によって他府県同様、明治天皇の仁政に浴し、その上三百年間取上げられた個人の自由や権利を獲得し、個人の生命や財産の安全を保障されたことを心ひそかに喜んだことであろう。「琉球見聞録」の著者喜舎場朝賢氏の如きは、確かに第三者の位地に立って時勢を達観した識者の一人である。しかし彼と同時代の人々は飽くまでも破壊された「王国のかざり」を夢みて泣叫び、復活した琉球民族の大飛躍に想到らなかったのである。
「死者をして死者を葬らしめよ」沖縄人は徒らに過去の不運に対して、愚痴をこぼすに及ばない。諸君は過去に於ける琉球の奴隷制度が新日本の出現の為に縁の下の力持ちになったという事実を知らないのか。薩摩は三百年来、琉球という実庫をひかえていたればこそ、一藩の財政はいつも欠乏を告げても、断えず琉球によって之を補充し増殖していって、長州と相雁行して維新の大変革に貢献することが出来たではないか。実に薩摩武士が強かったばかりではなく、琉球からいった黄金が大事業の基礎をなしたからだ。成程無意識でやった仕事には道徳上の価値はないかも知れないが、琉球から出た黄金が幕府を倒す力の一部になったことは争う可らざる事実である。先達沖縄を訪問された薩摩の偉人前田正名翁は或所の講演でこの意味に於いて「謹んで琉球国に感謝す」と言われたではないか。これとりもなおさず琉球が日本帝国の為に払った大犠牲を賞賛したのである。しかしながらこの犠牲によって琉球自身は致命傷を受けたことを知らなければならぬ。これすなわち民族性の大変化である。くわしくいえば三百年間奴隷的生活に馴致されて、自己によって自己を維持して行くという独立自営の精神が皆無になろうとしていることである。彼等が所謂「ヤマトヂフェー」という言葉は「御国元」の人の気の早いことを驚嘆し賛美する声であるが、彼等が「大和気早(ヤマトヂフェー)を羨望しつつ尚且そういう風になることが出来ないのは、彼等がまだ精神的には解放されていない証拠である。沖縄人が命ぜられた義務に服従する柔順にして、与えられた権利を獲得する躊躇する理由もここにある。
兎に角沖縄に於ける奴隷解放は明治十二年に試行された訳であるが、それはほんの形式上のことで、大正三年の今日に至ってもなお沖縄人は精神的に解放されていない。吾人はブーカー・ワシントンが、個性を没却し模倣をこれ事とするその同胞の為に、精神的の奴隷解放を絶叫する所を学ばなくてはならぬ。近来沖縄青年の一部に、自己に対し、父兄に対し、先輩に対し、社会に対し、反抗的精神の高調しつつあるは、やがて彼等が自己の解放を要求する内心の叫びに外ならない。これむしろ喜ぶべき現象である。願わくは沖縄青年の心から自己生存の為には金力や権力の前に容易に膝を屈して、全民族を犠牲に供して願みないような奴隷根性を取去りたい。この根性を取去るでなければ、沖縄人は近き将来に於いて今一度悲しむ可き運命―奴隷的生活―に陥るであろう。而してこれに次ぐものは社会の滅亡である。世に社会の滅亡ほど悲しむべきものはない。これはた経世家の注意すべき大問題ではあるまいか。(三十六年の間筐中に秘せられた喜舎場翁の「琉球見聞録」が世に公にされるに当って、喜びのあまりこの一篇を草して琉球処分に関する卑見を述べた次第である。)
大正三年 二月二十七日、病床にて 伊波普猷誌