以前、当ブログにおいて慶応2年(1866年)の冊封時点で、琉球王国は経済的に終わってしまった旨の記事を掲載しました。その惨状の爪痕は明治6年(1873年)を『琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願』など当時の史料からある程度確認することができましたので、当ブログにて紹介します。
その前に、『尚泰候実録』233㌻から税法についての記載がありましたので、ブログ主にておおざっぱにまとめて説明すると、琉球総高9万4千石あまりに対し8千6百石あまりの定額にて、定額分の約40パーセントは砂糖代納の規定でした。ただし明治5年(1872年)の琉球藩設置後は従来の税法では幾分不都合が生じることもあって代銀納(物納ではなく代金支払い)にしてほしいとの嘆願により、明治政府は
・これまでの物納(貢米あるいは砂糖代納)を廃し、代金納に一本化。
・租税は従来の税率(8千6百石あまりの定額)にて、ただし那覇市場における収穫時期1か月の米相場の平均値を以て換算する。
とのお達しを出します。ただしそれに対する琉球側の反応が予想の斜め下をいくものがあり、その内容は下記ご参照ください。
琉薩(琉球と薩摩)の政治的関係に大変動を来したる以上、その経済的関係にもまた従って革新する所なかるべからず、是(これ)に就きて先に(明治)政府に上陳する所あり。即ち税法は米納の規定なりしも米産少なく不便なるを以って、先年大蔵省官吏(が琉球藩)出張の時、願書を出し、代銀納とし収納の季節那覇市上(市場)一カ月の(コメ)平均相場を以って上納する事となれり。
然るに、市価(市場価格)は鹿児島米によりて立ちたるものなるに、琉球米は実際上その半額の価を持するに過ぎざれば、内地米の相場を以って代納する時は、殆ど(ほとんど)倍額に達す。且つ琉球には現銭少なきを以って当惑甚だし、故に翌年砂糖時期を待つ事とし、5月の納期を12月に訂正せむ事を乞へり(『尚泰候実録』232~233㌻より抜粋)
ブログ主はこの文章を初めて読んだときは正直意識を失いかけましたが、気を取り直して読み直すと当時の琉球経済が本当に壊滅していたんだと実感できました。当時の社会において農業が崩壊していることと(琉球米の品質がきわめて劣る)、社会に現金がきわめて不足していることで、その近因はどうみても文替(もんがわり)と慶応2年(1866年)の冊封使の到来しか思いつきません。
米を売り払おうとしても相場の半値(捨て値同然と言っても過言ではない)でしか売れず、結果的に増税を余儀なくされ、しかも当座の現金も持ち合わせていないということで、明治政府は琉球藩に対して税の徴収方法を変更せざるを得なくなります。物納から代金納へ税負担を軽くする措置がかえって琉球藩を苦しめる結果になろうとはさすがに予測できなかったのかもしれません。
(中略)ここにおいて、朝廷詮議の結果、賊米の名目及び砂糖(代)納を廃し、爾後米8千2百石を定額とし、毎年10月15日より12月15日に至る62日間大阪市上の平均相場を以って、石代上納する事を命ぜられ、当分の中、翌年7月迄延納を許可せらるる事となれり。(『尚泰候実録』233㌻より抜粋)
結局は上記の通り代金納となり、琉球物産(砂糖など)を大阪市場にて販売することで税を納めることができるようになりました。しかも租税延期の措置まで講じているところが情けないというか複雑な思いを禁じえません。
この件に関する史料は『琉球所属問題関係資料(第六巻)』の中にありましたので、次回原文と読み下し文を合わせて紹介します(続く)。