琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願

今回は明治6年(1873年)4月12日、伊江王子および三司官名義の嘆願書等の史料について言及します。原文は『琉球所属問題関係資料(全八巻)_第六巻琉球処分上・中』からの引用で、読み下し文はブログ主にて作成しました。この史料については仲里譲著『琉球処分の全貌』の64~67㌻にも詳しく記載されていますが、ブログ主と仲里氏では解釈に若干の違いがあります。

ただし史料を読み終わったときの感想は同じで、「余りの貧困に絶句して何を言ってよいかわからない(同著67㌻)」になります。その部分を抜粋しますのでご参照ください。

(前略:琉球の飢餓史についての記述あり)前掲の琉球藩からの貢米延期繰り延納入願と、それを受けて外務少輔・上野景範「琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付付願」の文章を読んで感じることは「余りの貧困に絶句」して何を言ってよいかわからない。そして中山盛茂著『琉球史辞典』の年表に列記されている飢餓と餓死の繰り返しに対しても、悲惨という外はない。沖縄、とくに八重山民謡の歌詞に「このまま死ねたら、どんなに楽かも知れない」という句が一つや二つではない。旧藩時代の農民達は年貢を納めるために「生まれ」て、過労と栄養失調で「死んで」ゆく運命にあった、といえるのではないだろうか。

1990年代、沖縄では沖縄の国際都市形成、日本の南玄、中継貿易県、沖縄自立論や独立論まで再燃したが、その琉球史に対する無知を嘆かざるを得ない。此の時点でも中間的結論としていうと、沖縄の廃藩置県は庶民の「ドレイ解放」となったという側面を軽視してはならないだろう(『琉球処分の全貌』67㌻)

補足すると、為政者に経済や経営に関するセンスが欠けていると、とんでもない事態を引き起こす可能性があるんだなと痛感せざるを得ません。我が沖縄も近い将来そうならないことを願いつつ今回の記事を終えます。


ここからは史料編です。まずは外務少輔・上野景範が太政大臣三条実美宛てに提出した願書を参照ください。「猶現地之情勢取調候處願意無據相聞(なお現地の情勢を取調べそうろうところ、願意よんどころなし(無據=やむを得ない)と相聞こえ」の文言に当時の琉球藩の経済的窮状を察することができます。

〇 琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付願

【原文】今般琉球藩ヨリ貢米上納方之儀ニ付別紙之通願出候間猶現地之情勢取調候處願意無據相聞殊ニ同藩之儀者海陬之孤島ニテ即今内國同様之税法ニ引付候譯ニモ難相成候得者可然御評議有之度爲其願書及現地熟知之者ヨリ差出候書類相添此段相伺申候也

明治六年七月廿九日 外務小輔 上野景範

太政大臣 三條實美殿

【読み下し文】今般(こんぱん=このたび)琉球藩より貢米上納〔の〕方〔法〕に付き、別紙の通り願出(ねがいで)そうろうあいだ、猶(なお)現地の情勢〔を〕取調(=調査)そうろうところ、願意(願い出の意は)無拠(よんどころなし=やむを得ない)〔と〕相聞〔え〕、殊(こと)に同藩の儀は海〔の〕陬(すみ)の孤島にて即ち今内国同様の税法に引付そうろう訳にも相成り難くそうらえば、しかるべく御評議これありたくため〔に〕、その願書及び現地熟知の者より差し出しそうろう書類〔を〕相添〔付〕この段相伺い申しそうろうなり。

明治六年(1873年)七月廿九日(7月29日) 外務小輔 上野景範

太政大臣 三條實美殿


次は明治6年(1873年)12月2日、明治政府から琉球藩への租税方法に関する通達です。特例扱いで租税方法の変更および延納(期限を過ぎてから税を納めること)について記載されています。

【原文】琉球藩貢納ノ儀同藩願之通ニハ難聞届候得共特別之詮議ヲ以賦米等ノ名目幷砂糖納相廢シ自今米八千二百石を常額ト相定候條毎年十月十五日ヨリ十二月十五日迄六十二日間大坂市中平均相場ヲ以石代上納取計ヘク尤右期限ノ義當分翌年七月マテ延納差計候條納方之儀ハ大藏省エ可申立旨可相達事

明治六年十二月二日 琉球藩

【読み下し文】琉球藩貢納の儀、同藩願〔出〕の通りには聞き届け難くそうらえども、特別の詮議を以て賦米等の名目並びに砂糖納相廃し、自今米8200石を常額(=定額)と相定めそうろう条、毎年10月15日より12月15日まで62日間大坂市中〔の〕平均相場を以て石代上納取計〔う〕べく、尤(=もっと)も右期限の義(=儀)〔は〕当分翌年7月まで延納差計りそうろう条納方の儀は大蔵省へ申し立てるべく旨相達すべくそうろう事。

明治六年(1873年)十二月二日 琉球藩


明治6年(1873年)4月12日、摂政(伊江王子)三司官(宜野灣親方、川平親方、浦添親方)連名の(租税方法に関する)嘆願書です。青地部分をブログ主にて読み下し文に直しましたが、その内容は先に紹介した『尚泰候実録』に記載されている通り、①琉球には金銀および現金の融通が非常に難しく、現地での納税は極めて難しい、②しかも琉球米の品質がきわめて劣り、那覇市場で取引される鹿児島米の半値程度でしか売ることができない、③それ故に内地(おそらく大阪か?)にて琉球物産を販売して納税できるよう取り計らっていただきたい、になります。この史料を読んだだけでも琉球の産業経済は絶賛崩壊中で自力回復はほぼ不可能であったと察することができます。

【原文】當地之儀 朝廷御支配被仰付段々蒙御恩恤且是迄鹿兒島用聞共ヨリ高利付之借銀有之致難澁趣被聞召通段々被爲及手數東京國立銀行ヨリ金貮拾萬圓借用ヲ以返却濟彼是御取扱之程誠以難有次第奉存候然處全体不自由之小藩歳入之分ニテハ諸用費用合不申難澁之上臨時物入之儀トモ打續藏方ヲ始士民窮迫成立定式難差欠藩務之用銀モ御座候得ハ銀行五ヶ年賦元利割渡之儀モ大金之事ニテ年々定式之歳入ヲ以拂入之處別テ無心許殊更近年稀成旱リニテ年内稻植付究竟ノ時節節ヨリ當分ニ至リ潤ニ相成候程之雨降不申多分乾田相成苗者勿論適植付置候稻モ枯損庶民朝夕之食料ニ仕候唐芋迄モ植付方不相調今形ニテハ千萬成熟之程無覺束旁以心配罷在殊ニ海外之土地金銀之通融モ無御座上納方ニ付テモ別テ手數ニ相及事ニ御座候間何卒御憐愍之御處分ヲ以當酉年之貢税來戌十二月迄ニ上納仕戌年貢税亥十二月迄ニ上納仕年々其通追送之引結ニ被仰付左候テ右年貢之内直成替ヲ以此節致上納候砂糖九拾七萬斤余御引合之石高モ來年上納之方エ御差引被仰付右砂糖以來者名分通米二御引直被下候様奉願上候年貢米之儀都テ代銀上納被仰付度於當所先達テ奉願趣御座候處大蔵省之官員衆當地二御詰居無御座節者代銀大坂表租税寮エ上納可致尤相場立之儀者當地収納之季節那覇市上一カ月ノ上米相場平均ヲ算シ代銀積取計候様御達之趣承知仕候得共金銀之通融無之現錢モ不自由ノ場所柄ニテ於當地者代銀ノ手當全ク難相調暖地地性モ不宜譯ニ候哉出産之米品位別テ不宜賣拂候而モ御内地米ヨリ直段半減位モ相劣、那覇市中相場之米ト申候得者皆鹿兒島邊ヨリ致輸入候品ニ而、藩米之相場と申モシカト無御座諸品差登繰合ヲ以上納仕度儀二候間旁之情實被聞召取御見合ヲ以於大坂御定直被召立年々彼表ニテ代銀上納被仰付被下度奉願候左様御座候得者追々者窮民撫育之道モ相調一藩御恩澤ニ浴シ難有御奉公筋精勤仕度奉存候乍恐奉願候條件御許容被成下候様偏ニ奉仰御仁恵候以上

明治六年四月十二日 伊江王子、宜野灣親方、川平親方、浦添親方

外務省 御中

【読み下し文(青地部分)】(中略)年貢米の儀すべて代銀上納仰せ付けられたく当所において先達(せんだち)て願い奉り趣(おもむき)ござそうろうところ、大蔵省の官員衆〔が〕当地にお詰居ござなく節は代銀〔は〕大阪表租税寮(=国税局のようなもの)へ上納致すべく、もっとも相場立(ばたて=米市場で米仲買屋を相手に売買をする者)の儀は当地収納の季節〔における〕那覇市上(=市場)〔の〕1か月の上米相場の平均を算〔出〕して代銀積取計い(つみとりはからい)そうろう様御達の趣〔は〕承知仕りそうらえども、金銀の通融(=融通)これなく現銭も不自由の場所柄にて当地は代銀の手当全く調い難く、暖地知性もよろしからず訳にそうろうかな、出産の米品位別て(わけて=特に)買払い(=売買のこと)宜しからず(=都合悪い)にそうろう、しかも御内地米より直段(=値段)半減位も相劣り、那覇市中相場の米と申しそうろえは皆鹿児島辺りより輸入致しそうろう品にして、〔琉球〕藩米の相場と申もしかとござなく(=琉球米の相場なんてものはない)、諸品差登繰合を以〔て〕(=おそらく琉球特産品は内地で売買して)〔代銀〕上納仕りたく儀にそうろうあいだ、旁(かたがた)の情実聞し召し取られ御見合いを以て、大坂〔に〕御定直(おさだめなおし?)〔に〕召し立てられ、年々彼(大坂)表にて代銀上納仰せ付けられ下されたく願い奉りそうろう、左様ござそうろうは追々は窮民撫育の道も相調え、一藩〔の〕御恩沢に浴し有難く奉公の筋精勤仕り存じ奉りそうろう、おそれながら願い奉りそうろう条件御許容成り下され様偏(ひとえ)に御仁恵(おめぐみ)を仰ぎ奉りそうろう以上。

明治六年(1873年)四月十二日 伊江王子、宜野灣親方、川平親方、浦添親方