【急募】琉球藩の二枚舌交渉を擁護する方法 – その5

(続き)明治8年7月の明治政府による御達書(行政命令)に対する琉球藩の交渉ですが、当初は個別案件に対して受けるか否かの話でした。たとえば刑法習得のため学生派遣は可、軍隊駐留は条件付きで可、清国との関係断絶や日本の年号統一、あるいは藩政改革は拒否などで、ここまでは明治政府から派遣された委員たちも想定の範囲内でした。

実は松田道之をはじめ明治政府の委員が困惑したのは、琉球政府の藩吏たちのいつまでたっても煮え切らない態度でした。当初は条件面での話し合いだったのですが、いつの間にか「決めることができない」との回答となり、松田らが一生懸命説得するも要領を得ない回答を繰り返すばかりです。その一部は既に当ブログでも言及しましたが、今回紹介する公式回答は極め付けですので読者のみなさん心してご参照ください。

當藩支那との續き五百年の緣由有之信義の掛る所にて斷ち絕候儀難致是迄通被仰付度松田道之へ段々願申上候得共御採用無御座其儘御請仕儀藩中人心の安んせざる所にて使者立を以政府へ申上乍此上御採用無御座候はば御請可申上段三司官口上を以て奉願候得共此儀も御聞取無御座然迚直樣御請も難仕次第御座候此段申上候也

明治九年九月五日 琉球藩王 尚泰

太政大臣 三條實美殿

引用:喜舎場朝賢著『琉球見聞録』98~99㌻より抜粋。

これは正直読み下し文を書きたくないのですが、下記参照ください。

当藩支那(清国)との続き五百年の縁由(えんゆう=ゆかり)これあり、信義の掛る所にて断ち絶(断絶)そうろう儀致し難く是迄通(これまでどおり)仰せ付けられたく松田道之へ段々願い申上げそうらえども、御採用ござなくそのままお請け仕る儀藩中人心の安んせざる所にて使者立ちを以て政府へ申上げながら(=藩吏を上京して嘆願するの意)、この上(政府が)御採用ござなくそうろはば、お請け申し上げるべき段三司官口上を以て願いたてまつりそうらえども、この儀もお聞き取りござなくとても直様(じきさま=すぐに)お請けも仕り難き次第ござそうろう、この段申上げそうろうなり。

大雑把に訳すると、「清国との関係断絶ができない理由を説明の上、松田道之へ説明も採用されることなく、藩吏派遣して政府に嘆願しその上で採用されない場合は(御達書を)お請けすることも拒否されたので、このままではとてもお請けすることはできません」になります。つまり「こっちの言い分を採用しないから決めることができない」とダダをこねているのです。驚くべきは、

国王署名付でこんな無様な内容の公式回答を提出したことです。

琉球見聞録を参照すると、松田道之さんの容赦のないツッコミに対して琉球藩吏たちが憔悴する様子が描かれています。下記参照ください。

是を以て松田は條理の在る所は殘らず解釋して説諭を爲し其頑心を開明せんことを要し其動かざるに至ては氣を起し聲を荒くし極點に至る苛責すること宛も三尺の童兒に於けるが如きことあり衆官吏は松田に責め立られ夜も寢ねず晝も休するなく毎日朝より晩に至り協議囂然として胸を燎き肝を碎き食も咽に下らず遂に精神困倦身體疲弊し醉ふが如く狂ふが如く面色悉く靑ざめ大息を呼吸するのみなり(中略)

引用:喜舎場朝賢著『琉球見聞録』98㌻より抜粋。

今回の案件における松田の職分は御達書を琉球藩に提示して賛意を得ることにあります。ちなみに拒否をしたら明治政府より朝命違反として行政処分されることになりますが、その場合も拒否の言質を取る事、これも職分になります。だから「決めることができない」という回答に対して松田道之さんの怒りが爆発するのも当然であって、

「守禮の國」とは正反対の態度に終始した琉球藩吏のことは歴史の事実

として語り継がなければなりません。

ちなみになぜ琉球藩側が断固たる決意をできなかったのか?その最大の理由は当ブログにて既に言及していますが、大事なときに決断できない政治機構(琉球藩)が用無しとして廃されたのも必然だと思わざるを得ないブログ主であります(終わり)。